銀座のギャラリーなつかで多田由美子展を見てきた。多田氏の展示は昨年の九月に茅場町のGallery≠Galleryで見ているが(参考:id:eyck:20070921)、作品の成り立ち方はほぼ同じながら、その有り様に変化も感じた。具体的に書けば、キャンバスに主に風景、しかも個物それ自体ではなく個物の輪郭に沿うようにして、一般に地となる所に薄く溶かれた透明度の高い絵の具が置かれ、一般に描写がされる物の内部は抜けていてキャンバスの地が露出している特徴は変らない。さらに、それらの絵の具のタッチとは位相を異にして、オイルパステルの線がほどけた毛糸のように画面に走っていることも同様だ。Gallery≠Galleryでの展示に関して、私はモノそれ自体ではなくモノとモノの関係を描くような絵の具のタッチに対して、パステルの線は画面内部での地や絵の具のタッチ、あるいは全体のフレームとの関係性に基づいて、風景から離れた要素としてあると書いたが、今回展示された作品ではこの絵の具とパステルの線が相互に“歩み寄った”ように見える。


簡単に言うならパステルの線は素材となる風景の情報により影響を受け、絵の具のタッチは逆に抽象性が上がっているように思える。画面全体ではパステルの線よりも絵の具のタッチの方が面積は広く彩度が高く、結果的に支配力が強く見えるため、部分的には一見完全な抽象画のようにすら見える。この場合、画面を成り立たせているのはタッチ/ストローク相互の関係性というよりは、むしろ地の白との関係性と言っていいだろう。半透明で底から発光するような絵の具のタッチは、風景との連関より画布の白地とのエッジの冴えに主要な注意が払われている。すなわち以前の多田氏の作品に見られたような、タッチ相互のネットワーク性よりは、個々のタッチの、隣り合う地とのコントラストに重心が移動し、タッチ相互はむしろ切り離され独立性を高めている。単一のキャンバス、ことに求心性の高い縦長のキャンバスでは、その独立性の高いタッチが、タッチ相互ではなくフレームとの関係性で位置や面積・ベクトルなどが調整されており完成度を上げている。


対して、展示中もっとも大きな、複数のキャンバスを横に繋げてパノラマ状にされた作品では、その大きさや極端な横構図のため、フレームと個別のタッチの関係性が成り立っておらず、全体に孤島のようなタッチ達が点在している。この作品は、大型化/パノラマ化によるフレームの規律の低下とキャンバスの繋ぎによって、いわば完成度という点では明らかに低い。にもかかわらず、大形作品の中ではこの作品がもっとも面白い。他の大作が、洗練されたタッチ、フレームとの手慣れた関係の結び方などによって、ぶれのない安定した構造を産みそれが若干の単調さに繋がっているのに対して、パノラマ状の作品は、いわばその破綻の有り様に多様な可能性を孕んでいるように思える。多田氏の手をもってすれば、100号前後のキャンバスはひたすらな磨き上げに向うかのようだ。だが多田氏は、パノラマ状の画面に対してはまったく構えを変えている。それは色彩の扱いに見て取れる。鮮やかな色彩はしかし「色数」に注目するなら極めて厳密に規制されストイックに絞られており、画面の統制のとれなさの中でなんとか壊滅を招かぬ様慎重に筆を進めている。明らかな「苦闘」の中で多田氏は安易な解放に向わず最後まで冷静な画面との対話を持続していて、その姿勢がこのまとまりのない空間に不思議な緊張感を付与している。


今回の展示でもっとも優れた作品は実は大形のキャンバスではなく隣りの狭いスペースに置かれた小品のいくつかだと思える。大形作品が置かれた会場に一種の気負いのようなものが感じられるのに対して、小品は丁寧な観察と高い技量が産む余裕が、伸びやかな画面を形成している。もっとも成功しているものは、対象の風景が過度の形式化・抽象化に陥ることなく雑多な豊さを保持したまま複数の色彩とタッチの関連の鮮やさを放っており、画面が独特の膨らみを形成している(対して大形作品の「決まっている」作品は、きれいにぴっちりフラットだ)。これらの小品にこそ、多田由美子という画家の本来の実力が定着している。このミスマッチ(画家は当然大形作品に最も力を入れているだろう)が象徴的に見えるのがオイルパステルによるドローイングの線の力で、大形作品では明瞭な集中力で一発で決められている絵の具のタッチに比して、ドローイングの線はどこか頼り無く居場所を探し、結果風景への参照度合いを高めているように見える。小品ではそのような消極性がなく、線は線自身の豊かさと自律性と画面全体への配慮など度外視した存在感を示している。展示は今週一杯まで。


多田由美子展