最近すっかり電源を入れなくなったテレビをふとつけてみたら漫画家の西原理恵子氏が出ていた。教育テレビの福祉関連の番組で、昨年がんで亡くなった夫の鴨志田穣氏が長く患っていたアルコール依存症について話していた。鴨志田氏はアルコール依存症は直したものの、がんに侵され亡くなっている。私は依存症ではないが(こういう言い方をする、つまり否認するというのがまずいらしいが)最近めっきり酒量が増え、気付いたら「経済的」とかいう理由でウイスキーの4リットルペットボトルを買い込み、これで1か月酒を買わずに済むと思っていながら明らかに1月もたないペースで中身が消えつつあったので、ちょっとだけヤバイな、と感じていた。西原氏の話しを聞いていたら流石に恐くなって、ネットでアルコール依存症やプロセス、簡易な診断法、禁酒・節酒の方法などを調べ、少し酒量をコントロールすることにした。


驚いたのは聞き役の人が、柔らかい物腰でけっこう突っ込んだ質問をすることで、具体的な文言は忘れたけど「(西原氏が)追い込んだ、みたいなところがあるのですか」なんてことを聞いていた。西原氏は冷静な受け答えをしていたので、たぶん家族がアルコール依存症患者を追い詰めてしまうのはよくあるのだろう。だから啓蒙番組としては、それがよくある事なのを伝え、視聴者に理解してもらうのは外せないポイントなのだろう。事前の打ち合わせとかあったのかもしれない。それにしても昨年家族を失った人にこういう質問をするというのは聞く方も聞かれる方も辛いことだっただろう*1。西原氏なりの社会的責任感とか使命感によるのだと思う。西原氏はテレビタレントではないけど流石に話に表現力があるし、なにより西原氏が出ることで、それまでこういう問題に興味がなかった人や、それこそ深刻な状況にあるのに「否認」してた人が最低限の情報、つまりアルコール依存症は病気であり、専門の医師の治療と家族の協力が必要だと言うインフォメーションをキャッチする可能性は増える。だとしたら、西原氏が身を曝した意味は大きいと思う。


西原理恵子という人は、自らの経験をルポ的にマンガにする、というスタイルで登場してきた。こういう形式はそれまでもあったと思うが、西原氏のマンガが人気をはくしたのは一種の下降指向とそこからくる攻撃的なギャグだろう。だが、一見シンプルなサイバラマンガには意外に複雑なシステムがある。私を含めた多くの読者が、どこかで「彼女の作品」を「彼女」と一体化させて読んでいると思う。初期の「まあじゃんほうろうき」は主人公の女性漫画家がマージャンの世界に入り込んで行くギャップを基礎に置いていたし、初のメジャー作品となった「ちくろ幼稚園」は、最初から最後までフィクションの形式をとりながら主人公の幼稚園児は「りえこ」と呼ばれていた。西原氏の作品は程度の差はあれ、どれもどこかで「これは作者の西原理恵子の経験に基づいている」と思わせる。氏の作中、もっともフィクション度が高いものに分類される「ぼくんち」も、舞台は西原氏の出身地・高知の港町を彷佛とさせる。こういう構造が、いつしか読者を「サイバラ」が“自分に向けて自分の話をしてくれている”という心理に導く。マスメディアであるマンガであるにもかかわらず、そこには親密な空間が仮構され、その親密さが、ギャグがいくら攻撃的であっても作品全体はちっとも攻撃的でない、柔らかな伝達に変換する。


「これはフィクションではない」というフィクションのもたらす下降指向が読者との間に親密圏をつくる、という作品の在り方は、彼女が「無頼派」と言われるとおり太宰治と共通する。吉本隆明氏が高橋源一郎氏との対談で述べていたように太宰ははっきり「ムードの人」だったのであり、「こいつは俺だけに向って話している」と思わせる作家だったというのは感覚的に納得できるし、これはそのまま西原理恵子氏の漫画家としての有り様にも繋がる。私は一時期、「まあじゃんほうろうき」や「恨みシュラン」を好んで読んでいたためか、その後のいわゆる叙情的作品には違和感を持っていたのだが、これは私の判断が間違っていた。西原理恵子氏は、映画監督の山田洋次氏について蓮實重彦氏が指摘していたのと同じように“根本的に悲劇作家”なのであり、その表面的なギャグをもって喜劇作家と捉えてはいけないのだろう。だから、サイバラには「無頼」と「叙情」の二面がある、というのは間違っていて、「無頼」も「叙情」もまったく同じ「悲劇」の表現の在り方なわけだ。今にして思えば「まあじゃんほうろうき」も「恨みシュラン」も「ちくろ幼稚園」も、「寅さん」が全部悲劇作品であったように全面的に悲劇作品と言っていい。


西原氏のマンガにおおよそ共通する主題は「共同体は(いつか)失われる」というもので、これは店と客の共同幻想の破れ目を描くという形で「恨みシュラン」ですら貫かれていた。この恐怖をベースにおきながら繰り返し小さな仮想共同体が作られては壊れて行く、というのがサイバラマンガの有り様だ。こういう作家が、テレビに生身を曝して亡くなった家族の病について語る、というのは危うい。それははっきり言ってしまえば、鴨志田穣氏の闘病とその後のがんによる死が「悲劇」として仮構されてしまいかねない、ということで、その危険性は西原氏も自覚しているだろうしだからこそ取材によるVTRではなくスタジオで直接語られる必要があったのだろう。しかし、にも関わらず、西原氏自身がコントロールできないレベルで「サイバラ」という「キャラ」は強い力を持っている。インサートされた「まいにちかあさん」のカットも含めて西原氏のサイバラ性は覆しようがない。もしかしたら、西原氏は、必要な情報が啓蒙できるなら西原氏のサイバラ化も、鴨志田穣氏の「悲劇化」も引き受けているのかもしれない。だが、受け手が注意しなければならないのは、西原氏が伝達しようとしたのは悲劇でも喜劇でもなく「現実」だということだ。


というわけでお酒を控えることを宣言します。

*1:鴨志田氏がアルコール依存症を治療後、がんで若くなくなったというのは、アルコール依存症が死のなんらかの要因、例えば体力の低下etc.として関係あるだろう