アート・インディペンデント・メディアの状況(1)

既存のメディアが弱体化して、そこにwebやフリーペーパー、自主運営スペースなどのインディペンデントメディアが侵食しているなんていう構図は、いまやわざわざ書くまでもない前提になっていて、むしろ焦点はそういった「大文字のメディア」に代替しつつある「小文字のメディアの散乱」がもたらす問題にどう対処するのか、というところだったりする。島化-タコ壺化を補完するハブ・メディアの重要性とか、webオンリー状態になりそうでならないような(相互作用的というべきか)オフラインメディア(フリーペーパーや小規模シンポジウム)の勃興とか、こういう展開はいうまでもなくはっきりしていて、むしろ冷静に批判的に見るべき状況ですらあるし、こういった状況が「大文字のメディア」を倒すかと言ったらそんなことはなくて、むしろ「大文字のメディア」の存在意義や役割がはっきりしてくる(きて欲しい)んじゃないか、というのが、まぁ、ごく一般的な認識だろう。


で、こういう状況にビビッドなのが社会学周辺のジャーナリストや批評家・ライターさんたちだったりして、それに対してまったくもう美術っていうのは鈍感で腰が重くてやってらんないよね、とか悪口を書くのがちょっと前までのありがちな光景だったわけだけど、そういうのも粗雑、というか現状を見ていない議論であることは、現場にいればすぐに分かることだ。


最近の動きでもっとも注目すべきは「Review House」という雑誌の創刊で、基本的に見開き2Pのフォーマットでアート関連のレビューやエッセイ・批評を並べる、という一種のカタログ的「軽さ」が新鮮だ。しかも既に当たり前になりつつあるフリーペーパーから更に差異化を図っているあたりが嗅覚が鋭いと思う(しかしフリーペーパー的感覚も通過しているのが見開き2P、という形式に見てとれる)。私は購入の申込みをしただけでまだ手元に届いておらず、読んでいないのだけど巻末に林道郎氏の行った講演の起しがあるというだけでお金を払う気になるし、巻頭が青木淳悟インタビューだったり土屋誠一氏がtxtを書いているというだけで読む前から「正しい」パッケージであることがはっきりしている。


webに関してはわざわざここで書くのもアレなわけだけど、いまやアーティストはwebサイトを持ってるものとして考えられているし(本当はそんなことはなくて、持ってない人も相当数いるんだけど)、そこにはたいていblogがついている。私以下の世代はもはや当然な状況だし、以上の世代でも意識的な作家はそれなりのものを持っている。あの岡崎乾二郎氏がようやく本格的なサイトを公開した(http://kenjirookazaki.com/)。そういう意味では中身はともかく彦坂尚嘉氏は動きは早かった*1し、私と同世代であれば中村ケンゴ氏とかはかなり早い段階でwebというものを理解していた(私がwebを知った1999年には、もう本格的なサイトを構築していた)。


webに批評的場を広げる可能性を開示したのが浅田彰氏によるi-critique(携帯でやってたというのが今から見ても先進的)と「偽日記」の古谷利裕氏であることは事実だ。ことに20世紀末に始まり2001年くらいに頂点を迎えたテキストサイトの形式にのっとりながら、濃密な文章でネットの枠を超えてしまったのが古谷氏だろう。もはや完全に滅びたテキストサイト・ムーブメントの希な生存例で、今でもblog文化から完全に切り離された展開を見せている。ニュースサイト的形態をとり、「カトゆー家断絶」といったオタク系ニュースサイトからもウヲッチされているomolo.comの山内崇嗣氏の活動も特筆すべきだろう。当paint/noteも、恐らくはこの動静の一部に、望むと望まざるとに関わらず関与している。*2


もちろん、こういう動きの全てが上手くいったわけではない。順調なキャリアの裏側で、自主メディアというフィールドで苦労をしていたのが田中功起氏で、「芸術の山」は相応に注目されながら離陸できなかったようだ(http://mountainofart.blog18.fc2.com/)(サイトを残しているのは素晴らしい。奥村雄樹氏との往復メールは是非いまからでも公開して欲しい)。藤枝晃雄氏の作った批評研究誌「芸術/批評」にも参加していた田中氏だが、この雑誌も意欲的ではありながら一般性は獲得できなかった。田中氏が意外なくらい遅く、ごく最近になってようやく自分のサイトを公開した(http://kktnk.com/koki_tanaka_works.html)ことに、一種の“苦さ”を感じ取ってしまうが、アーティストとしては、いわゆる「日本趣味」を武器にしたマーケット至上主義からは距離をとった上で、なおかつ国際的な成功を治めつつある希有な力量の持ち主なので、今後の展開も注目すべきだろう。


アカデミーの立場から「いいかげんでない、きちんとした」形式で相応の水準を示しつつ、しかしそれ故に「芸術/批評」と同じように広がりが持てないでいるのが表象文化論学会の出す「表象」という雑誌だ。アカデミーをとりこみつつ、そこからブレるような形で展開する近畿大学四谷アートステュディウムは、むしろその活動の総体で評価すべきだが、ここが出しているartictoc誌は3号で止まっている。


アカデミーと作家性の狭間でアクティブなのが東京芸大を拠点として動く池田剛介氏で、先のネグリ招聘イベントにも一定の位置をしめていた。同時に発行されたペーパーメディア「The Bigger Issue」の責任編集が池田氏だが、ここで注目すべきは木幡和枝氏のインタビューではなく、ネグリの「マルチチュード」を一要素として様々な近代-現代の美術における「運動」をダイアグラムで図示したチャートで、ペーパーメディアといえば「文章」が載るものという価値観を崩し、ビジュアルな「地図」を作成してみせた点に芸術大学としての視点を提示しえた。また同時に、作家としても粟田大輔氏によるコンセプトの明瞭な「ヴィヴィッド・マテリアル」展に出品している。池田氏は2003年に藤枝晃雄氏と浅田彰氏の対談という、意表を突く、しかし実現してしまえばなぜ今までなかったのか、と思わせるようなシンポジウムを企画・運営した。今も憲法9条をテーマにした展覧会を企画している渡辺真也氏を招いてのレクチャー「日本国憲法第九条と戦後美術を考える」を進行させつつあり、注目に価する。


随分長くなったので以下次号。

*1:ちなみに、MLなどを駆使していた彦坂氏はちゃんとblogにスイッチしている。http://hikosaka.blog.so-net.ne.jp/

*2:美術野郎、とかには流石にコメンタリーしないでおく