ブラッシュストロークの現在地点(2)

1996年の灰塚アースワークスに参加し岡崎乾二郎の近くにいながら「日本における抽象」から距離を置いていた山内崇嗣(1975-)は、日本というローカルな場所での「アート」にシニカルな視線を寄せ、その「悪い場所(椹木野衣)」におけるズレた感覚に基づいて制作する、という意味では、実は岡崎と会田の間にいたと言っていい。山内は、やがて「日本における洋画」をモチーフとする中で、やはり迂回した形でブラッシュストロークを慎重に俎上にのせてゆく。具象画の中でイメージと知覚のコンフリクトを追いながら、山内はそこに絵の具が剥落したようなイメージ、いわば偽のブラッシュストロークをちりばめた。その扱いは洗練されているとは言い難いが、主題となるイメージのもったりした絵の具の質感にはネタのようでいてベタなタッチが見て取れる。


ここまで見ると、主流/傍流を問わず、意識的な画家達は、とにもかくにもブラッシュストロークを回避するか、扱うにしてもエクズキューズを挟んでいたことがわかる。ストレートな意味でブラッシュストロークを扱っていたのは中村一美の他には辰野登恵子(1950-)、小林良一(1957-)、東島毅(1960-)といった、会田誠よりも上の世代の画家達であって、表面的にはポスト・モダニズムという言葉が氾濫する中、ブラッシュストロークは一種の絶滅危惧種のようになっていった。が、実は岡崎乾二郎のすぐ隣に非常にはっきりとしたブラッシュストロークの使い手がいた。松浦寿夫(1954-)である。


2002年開設された自主運営ギャラリーArt Traceが、林道郎と並んで松浦寿夫セミナーの講師に呼んだのは、まさにこのブラッシュストロークの存在があったからだと(事実関係を棚にあげても)言っていい。実際、Art Traceで発表された作品の多くが、ブラッシュストロークを介在させた絵画作品中心だったことは、形式的なレベルで指摘できる。藤原佐多央(1977-)他、若いメンバーの作品は、驚く程率直な油絵の具の使用とストロークで意表を突いた(ギャラリー内でペインティング・オイルを販売したりまでしていた)。ナイーブな手付きで絵の具をキャンバスになすりつけてゆく松浦寿夫は、Art Traceにとって近しい存在だったように見える(現在のArt Traceは多様化しているが)。


境澤邦泰(1972-)は、Art Traceに参加した中でも特徴的な画家だと言える。キャンバス地を空けたタッチを点在させながら、まるでそれが極端に積み重なっていつしか画面がブラックアウトしてしまったかのような制作をする境澤は、改めて絵画にペインタリーな表面を召還した。タッチが散乱する、途中経過のような作品と、画面にオールオーバーな絵の具が塗りこめられた作品の並列が目立つが、その2つが本当に連続した過程であるかは実は不確かだ。しかし、その有り様はブラッシュストロークの迂回と、オールオーバーな抽象表現主義の連続性/不連続性を象徴している。


更に、まったくの突然変異のような形でブラッシュストロークの使い手があらわれる。内海聖史(1977-)だ。中村一美と同世代で、ある段階から筆を使わずシルクスクリーンのスキージを加工して油絵具を画面に積層しはじめた野沢二郎(1957-)の影響下からスタートした内海は、短く先を切った筆で油絵の具のごく短いタッチを置き、このタッチを集積して最大横17メートルもの大画面を組織した。このスケールは中村一美以来のものであり、2007年の資生堂での展示は話題を呼んだ。綿布への絵の具の染込みまでふくめ、明らかに野沢に見られる抽象表現主義の日本での受容がなければ存在しない作品だった。


ここまでの流れが、いわば抑圧されていたブラッシュストロークの回帰の動きだったとして、岡崎が2003年に近畿大学の東京コミュニティカレッジとして開校した四谷アートステュディウムからは、まったくブラッシュストロークから切り離された作品を展開する作家が現れはじめた。絵画から絵の具と筆をパージしながらなおかつ絵画についてコメンタリーしていこうとするのが池田剛介(1980-)だ。先の「ヴィヴィッド・マテリアル」展で発表された、アクリルボックスに木の葉を鮮やかな樹脂で成型し集積させた作品は、全面的に岡崎の影響が見て取れるが、唯一最大の差は「キャンバス」も「絵の具」も“迂回する”のではなく“一切扱わない”点にある。


上田和彦(1975-)もブラッシュストロークを放逐した絵画の生成を行っていて興味深い。その色面は明らかに「塗り」の痕跡はあるものの「筆跡」とは言い難い。が、同時に村上隆的「スーパーフラット」とはまったく質を異にした、ほとんどどこにも定位できないような奇妙な色面を構成する。上田は、タッチではなく色面のシステマティックな定着をしているように見えながら常に余白との関係を見ており、いわばブラッシュストロークを用いない岡崎的作品を形成してみせる。また、恐ろしく微妙な彩度・明度を調整された色彩は視覚的な不安定感を生成していて、はっきりした鮮やかさを思考する池田とは方向を異にする。


2008年のVOCA賞を受賞した横内賢太郎(1979-)は、サテン地に絵の具をステインして印刷物の像を描くという手法で注目された。ステインといっても中村一美ではなく、丸山直文(1964-)を彷佛とさせる映像的イメージは、ブラッシュストロークとは異質な、むしろ写真におけるブレ・ボケの効果に近い画面を形成している。この場合、工芸的な塗りの滑らかさで手跡を消すのではなく、基底材の薄さとステインの操作の繊細さで印刷-映像-絵画というメディウムの段差を意識させるような作品なのだが、いずれにせよ横内の作品はブラッシュストロークの排除とも回帰とも無関係な場所にあるように見える。


以上、0年代の日本国内の絵画におけるブラッシュストロークの展開を粗く見たが、海外に目を移せば、そもそもこれだけ持続的かつ大量に「絵画」を生産している先進国は他にないのではないか。キーファー以降、ポルケあるいはリヒターといったドイツ人画家が目立つくらいで、アートのメディウムは映像・インスタレーションインタラクティブアートなどに分散している。村上隆が画家としての出自を持っているにも関わらず現在ほとんど絵画を制作しないのは、まさにこのような外部状況(国際マーケット)に対応しているからだ。携帯が日本国内で奇形的に進化していることなどを取り上げて「パラダイス鎖国」と呼んだのは海部美知だが、例えば国内で支持を得、なおかつ販路を持つコマーシャルギャラリーとも契約している内海聖史がなかなか海外への展開が出来ずにいるのも、日本の特種状況によるのかもしれない。実際、海外へ進出しているのは村上・会田といった「シニカル・ニッポン」主義の作家を除けば田中功起(1975-)、奥村雄樹(1978-)といった非-絵画作家を中核とする。もっとも、「美術の本場たる欧米での成功」が一義的に賞揚される環境も20世紀にほぼ終了していた。


だとするならば、国内/国外、あるいは絵画/非絵画といった線引きにかかわりなく、またローカルな文脈に依存する必要もない、明晰な形式性・論理性が、たとえ目先の刺激を欠いていたとしても対話可能性を保持し原理的な解放回路を形成する必要条件ではないか。溢れる絵画/溢れる非絵画といったものの中で圧倒的に欠如しているのはこういった作品の形式性・論理性であり、それと相互作用する言葉のレベルだと思える。