国立西洋美術館ティツィアーノによる「ウルビーノのヴィーナス」の展示を見て来た。大混雑なのかと思ったら、空いているとは言わないものの比較的良好なコンディションで展観できてほっとした。この作品はウフィッツィで見ているのだけど、あの時は初期-盛期ルネサンスを見終えた段階で集中力が尽きていて、この美術史上の重要作品に関してもちょっと呆然とした記憶がある。1400年代のフィレンツェ絵画に魅了された目でこの作品を見ると、その表面に、なんというか「抵抗感のなさ」のようなものを感じていた。これはまずは即物的な水準に要因があって、フィレンツェ派の(多くは板に)テンペラや油彩で描かれたものと、ヴェネチア派による画布に油彩で描かれたものとでは、ごく単純に画材の抵抗感が違っている。


先行するフィレンツェ派に比べ、おそらく油絵具が改良され普及もしたのだろうヴェネチア派のキャンバス絵画は、大画面にたっぷりとした発色の良い絵具が筆によってダイナミックに置かれている。結果、テンペラ的に積み重ねられることで獲得されていた硬質でフラットなフィレンツェ派の絵画表面、あるいは比較的小画面に緻密に構成された画面は、ヴェネチア派以降においては「伸びる油絵の具」が「弾力ある画布」の上に、遥かに自由度を増して展開されるにいたったのではないか。フレスコほど時間に制約がなく、色彩の発色が鮮やかで、かつ何度も塗重ねられていくことで得られるボリューム感は、この「画布に油絵具」というインフラの整備によってこそ獲得された。ルネサンス絵画はレオナルドで一度大きく切断され、以降ラファエロでまったくその表面の質を変えるが、この変化もキャンバスに油彩、というシステムの変更が大きく作用していると思う。ヴェネチア派、ことにジョルジョーネやティツィアーノは、この変化の完成者のように見える。


油絵具と弾力ある画布がもたらすボリューム感は、人物表現においてもっともその力を発揮しただろう。ことに裸体画であればなおさらだ。石灰質に絵の具が吸い込まれていくフレスコや、緻密なハッチングを積層してゆくテンペラでは「ウルビーノのヴィーナス」のようなボディは獲得できない。そこを無理してフレスコで「人肉」を描こうとした点にこそマザッチオの「聖三位一体」の驚くべきポイントがある(参考:id:eyck:20060116)。もしかしたらボッティチェリの1400年代で既にマニエリズム化している歪んだ人物表現や、ミケランジェロがまず彫刻を志したのも「画材の制約」に起因するのかもしれない。いずれにせよ、油絵具+画布が与えた自由度をもっとも存分に駆使しえたのがジョルジョーネやティツィアーノといったヴェネチア派だと言えると思う。


目を奪われる裸体表現から遅れて、「ウルビーノのヴィーナス」で「画材の有り様」を強く実感させるのは、実はヴィーナスを取り囲む布の存在による。「ウルビーノのヴィーナス」が、先行する裸婦像にインスピレーションを得て描かれ、以降一種のテンプレートとして機能したという説明は展示会場でも示されるが、こういった図像的な理解からはみだすのが「布」だ。系統的に並べうる裸婦像、ジョルジョーネのビーナス像から始まり様々に変奏されるヴィーナス像の中で、このティツィアーノのヴィーナス像は、明らかに「布」が画面内に占める割合が大きい。ベッド上の犬、画面右上の奥の部屋の床面と窓を除けば、そのほとんどが「布」で占められている(ジョルジョーネの作品とティツィアーノの作品を比べてみればはっきりする)。面積だけではなく、女中が探す衣服という図像的主題まで含めて、「ウルビーノのヴィーナス」の主役は「布」なのだと言いたくなるくらいだ。そして、一切布をまとわないヴィーナスの官能的な肌理を見ていると、そこにうかびあがるのは、引き延ばされた油絵具の下に見えるキャンバスの織り目でもある。


豊かな肉と見えたものが凝視していると「布」として現れて来る時、「ウルビーノのヴィーナス」はほとんど全面が「布」に覆われ始める。もちろん、そこで豊かな肉が消えてしまうわけではない。布がしかし肉である、という不可思議な、しかし一目瞭然でもある現象を経験するとき、この絵画は確かに西洋絵画史の極めて重要な位置をしめてゆく。「裸のマハ」のゴヤよりも、この事態に明らかに意識的だったのがマネであり、だからこそ「オランピア」は、裸婦を取り囲む空間が、ティツィアーノより更に徹底して「布」で覆われているのではないか。「布」とはつまり「キャンバス」であり「平面」でありイメージを支える複合的な何かなのだ。


ジオット以来の絵画が一貫して持ち続けた課題の見事な完成が「ウルビーノのヴィーナス」で、その歴史は、表面的な画題の脱聖化に反して、強力なまでのキリスト教的問題、すなわち「受肉」という観念を持ち続けていたように思える。「オランピア」のスキャンダルとは、けして図像の問題だけではない。また、単に絵画の平面性の画期的現れ、と言うだけでも把握できない。一度「受肉」した「絵画」が、まったくキリストから切り離された抽象的「平面」になって宙に浮ばされた、このことこそがスキャンダルなのではないか。そして逆説的なことに、そのような抵抗を経て獲得された抽象的「平面」にこそ、なお一層純化されたキリスト教性が含まれているようにも連想される。


●「ウルビーノのヴィーナス 古代からルネサンス、美の女神の系譜」展