●ちょっとずつ、絵を描いている。大きな作品が、ある程度のところまでは順当に来ながら、どうしてもあと一歩のところで分からなくて、寸止まりになっている。なんか過去の作品を見返してみたり、画集をぱらぱらとめくってみたりしながら、なかなか突破口が見つからない。


●今一番貴重なのは時間で、展覧会の準備の、いろんな雑用も相応に忙しい。加えて、やはり子供という要素は小さくない(私は育児を母体に一任してアトリエにこもってしまうつもりはまったくない)。絵を描くのはふっと目がさめた明け方4時だったりする。


●そうやって見つけた時間に、筆がすすまずジリジリしているというのは結構苦しい。こういう時に、例えば昔自分が作っていたような、設計図がしっかりあって決まったゴールに向って精度を上げていくような作品だったらどんなにいいか、と思うのだけど、あいにく今の作品はそういうものではない。時間がなかろうがあろうが描ける時は描けるし、描けない時は描けない。この苦しさに「負けて」筆を入れてしまうのは危険だ。描けないのなら、その描けなさにつきあわなければならない。


●かといって、じっとキャンバスとにらめっこというのも不健康ではあって、さてどうしたもんかな、と思っていたら、紙に鉛筆で制作するというのを思い付いた。深夜にクロッキー帳を拡げて、(スケッチブックはページが埋まってた)、ぐりぐり描きだしたらわりと楽しい。ああ、こんな感じこんな感じ、と手を滑らせた。これがタブローのヒントになるのかどうかは怪しいが、こういうのはいけるところまでいくしかない。


●いろんなことを脳内からサルベージする。長い柄の筆で描いたマチスを思い出して鉛筆の尻だけつまんで描く。トゥオンブリの暗闇ドローイングを真似して電気を消してみる。そういえば野沢二郎さんは大判の和紙に描いたデッサンをパネル張りしてタブローみたいにしてた(というか、あれはタブローだった)。ボッティチェリは線の画家だと思っていたけど、それは本当だろうか。彼のあの「線」こそ、ボリュームへの希求に満ちたものではなかったのか(空間を孕んだ線?)。


●ふいに銅版画を思い出す。こんな線を銅版画にしたらどうなのだろう?しかし、今の私には機材を含めた環境がない。でもなぁ、これ銅版でやったらまた違うんだろうな、と思いながら描く。


●私は色が恐い。比喩でもなんでもなくて、自分が色が扱えなくて恐いのだ。だからこそ色調を極端に狭めているのだけど、その反動か、なんにも考えなくやたらめったら色を使っている作品を見ると腹がたつ。あるいはうらやましく思う。何か、自然の対象物とかあれば、そこに色を見出せるのか、とも思う。


●というわけで相変わらずですが展覧会がどうなるかは初日までわからないと思います。


磯崎憲一郎さんが「面白かった」と教えてくださった汐留の「マチスとルオー」展になかなか行けずに焦っている。ルオーの、明度が低く彩度の高い絵の具が思い出されて、あの底から輝くような発色は、リトグラフとかではなくてやっぱりタブローだよなと思う。あと、ルオーの油絵の「額」が気になる。