川村記念美術館で「マティスとボナール」展。先のエントリでマティスに関して書いたこと、ことにその「線」についてだけピックアップした(モローに絡めて)のは、流石に単純化が過ぎたかもしれない。マティスの線に私が何かを感じたのは確かなのだけど、マティスはやはりマティスで、シンプルに線だけを引いていたのではない。沢山の要素をマチスは同時に、一見ナイーブとすら見える筆致で複雑に組み上げているのであって、そこから「線」だけを取り上げても彼の仕事のごく小さな所が見えるだけだ。


それを踏まえた上で、例えば終盤に見られるドローイング「ジャッキー」(1947)の、線のもつ豊かさには、会場を巡ってそれなりの数のマティスに心を動かされていたにも関わらず、やはり新鮮な驚きを感じる。


ここでの、ばらばらと一見相互に関係なく引かれたかのような線は、例えば森の地面に紙を置いておいて、そこに木の枝や葉っぱ、昆虫等が落ちてきたりのっかったりした結果「ジャッキー」の顔に見えてしまったかのようだ。なのに、それらの個別の線がかかわり合う時、そこには確かにふくよかな膨らみを持つ女性の頭部のボリュームが現れ、ふと視線を投げた、その運動のベクトルが駆動し、コケティッシュな魅力を(あっけらかんとしているのに性的な魅力を感じる)放射している。ただの作意なき、言ってみれば子供が引いたような線がなぜかボリュームをもち、動きを組織し、色彩すら感じさせる。「ブルーヌード」がマティスの切り絵のある到達であるのと同じように、この「ジャッキー」も、マティスにおけるドローイングのある到達点ではないかと思った。「左に傾けた首」(1913)とか、それまでにも良いなぁ、と思うドローイング(これはリトグラフだったか)はあったのだけど、「ジャッキー」の強さは特別だと思う。


ポスターになっている「仰向けに横たわる裸婦」(1946)は、印刷で見ている時は「なんでこれを看板にしたのだろう?」と思っていた。佐倉の駅前で雨の中、間抜けな感じで無料の送迎バスを待っている時、停留所にこのポスターが張ってあって、なんてことなく15分以上はそのポスターが視界に入っていたのだけど(凝視していたわけではない)、その疑問は消えなかった。期待した程の量のマティスは見られないかもしれない(そんなことはありませんでした)。ここまでの道のりと、その場での長いバス待ちを経て赴こうとする会場にちょっぴり不安を感じた。ボナールの方は鮮やかな油彩が採用されているのに、ポスターという、まぁある程度は一般性というか「受け」を狙うだろう媒体に鮮やかな色彩の目立つ作品ではなくこれを選ぶということは、今回の展覧会は相当シブイのかもしれないと想像したのだ。


ところが会場でこのオリジナルを見た時は、この作品が今回の展観で一番好きな作品になってしまった。美術展で、一番好きになった作品にポスターに採用されたものを選ぶなんて、すごいバカみたいだけど、これは本当に、趣味的な所まで含めて「好き」になった。ポスター担当の人にあやまりたくなった。


ここでのマティスは、とても皮膚的に画材を扱っている。マティスといえば、代表作では何度も試行錯誤しながら、しかしその痕跡がみつけられないほどカリッとした仕上がりを見せ、その「これしかない」感じが色彩の鮮やかさを作り画面の軽やかな絶対性(これは普通両立できない)を成り立たせるのだけど、「仰向けに横たわる裸婦」では、まるで雨の日の水たまりの中から女性のボディが浮上してきたかのようだ。マティスの、まさぐる手付きがダイレクトに感じ取れる。絵というのはごく単純な意味で画家の手の痕跡でありインデックスなのだ/この「仰向けに横たわる裸婦」という作品は、即物的にあのマティスの身体が描いていた跡なのだ、ということが生理的に伝わって来る。


マティスの作品、というのはそういう感覚がとても不思議に距離を持たされていて(初期の人物画などはそうでもないけど)、晩年の切り絵の作品では、まさにそこがとても抽象化されている。だけど同時に、わりとぎりぎり最後までマティスはこういう感覚を捨てたりしない。例えば版画技法ならこういう切断は比較的容易だし、事実ある程度は版を試したりもしているのだけど、意外なくらいマティスは絵の具と筆のもたらす直接性/間接性=距離感にこだわりをもつ。


晩年の、ヴァンス礼拝堂の、長い柄での描画を思い起せば、マティスにおけるインデックス性へのアンビヴァレンツ(と言ってしまっていいのかどうかは怪しいがとりあえず)な姿勢が想像できる気がする。マティスにとって、そのインデックス性は、溺れてもいけないものでありながら、しかしあまりに簡単に解決してもいけないものだったのではないか。この展覧会は神奈川県立美術館の葉山館に巡回するようで、チャンスがあればもう一度行きたいが(葉山館といえば初夏晴れの日に行きたい)、「仰向けに横たわる裸婦」は川村でしか見られなかったようなので、貴重な機会だった。


なんだか少し地味目の作品ばかり取り上げてしまった。上記の通り、この展覧会はマティス/ボナール双方とも、十分に充実しているので誤解なきよう。本当はマティスについては前回の反省だけして限定的に触れ、ボナールについても書き、更には川村記念美術館の増床によって素晴らしく充実した常設展について重点的に書くつもりだったのだけど、その気軽さを許さないのがマティスなのでしょう。時間があれば残りも書きます。とにかく展示は終了近いので、興味のある人は見逃さないことをお勧めします(葉山館でいいや、というひともいるでしょうが上記の通り川村でしか見られないものがあります)。


●「マティスとボナール」展