ひぐちアサ高校野球マンガ「おおきく振りかぶって」10巻が出た。三回戦の相手、崎玉高校の設定は面白い。簡単に言えば、崎玉高校は優秀な監督(モモカン)を持てなかった主人公チーム=西浦高校野球部だ、と言っていい。崎玉高校はけっして無能なチームではない。荒削りながらセンスのあるピッチャーがいて、とんでもない打力を持つ1年生がいて、ファインプレーをする内野がおり、誠実な主将がいて、チームに相互信頼の基礎がある。だが、彼等には、きちんと指導をし、はっきりとした目標をかかげる大人の指揮官がいない。初戦で前回優勝校を破った主人公チームも10人の1年生しかいない新設チームであることを考えれば、この2チームの差は事実上、指導者の有無だけだ。そして、たったそれだけの差が、残酷な程に試合内容に反映する。この残酷さを容赦なく描写しながら、しかし作者のひぐちアサは、どちらのチームに対しても、またどんな登場人物にも、はっきりとした肯定の眼差しを注いでいる。


このマンガはその中核に「出来ない人間が、しかしそれを押してやっていく」という主題を据えていると推測できるのは前回書いた通りだ(参考:id:eyck:20070124)が、この9-10巻では、その主題が角度を変え、より深みを増して展開されている。対戦相手は、甲子園出場校だった初戦と打って変って弱小校であり、かつ主人公の描写は控えられ、主将ながらどうしてもライバル・田島へのコンプレックスが克服できずにいる花井にフォーカスが移っている。さんざんな内容でコテンパンにされる崎玉高校と着実な成果をおさめる西浦高校野球部の差は、けして崎玉高校が愚かだからではない。相応に優れた資質を持つ花井が、「溢れる野球センス」を持つ田島にかなわないのも同様だ。花井は自問する。

オレだって…
満足してる
わけじゃねェけど

あいつらとオレで
何がちがうんだ?


能力とか

性格とか

境遇とか−…


彼が問うているのは「口実を探す」ためではない。人が現実に出会った時、この問いは必然的に要請される。なぜ私は彼ではないのか。なぜ我々は彼等ではないのか。なぜあの人はこの人ではないのか。能力の遍在も、境遇の差も、そして現実の差も、突き詰めていけば残るのは確率の問題でしかない。そこに根拠はないし、である以上どうすることもできない。だが、現実はその根拠のなさと全面的に無関係に(というか根拠のなさ故に)結果をもたらしてゆく。あらゆるスポーツがそうであるように、野球も、そのような現実の一つのモデルだと言っていいし、それがまだ未成熟な高校生によって行われるならば、そこで展開される「現実」は、ある意味よりむき出しの様態を示すだろう。そして現実の無根拠さ=残酷さを無視しないからこそ、「おおきく振りかぶって」は重層性を失わない。8巻で敗れた桐青高校の、バックヤードでの高瀬と河合の涙が決定的に心を打つのは、そこに努力や才能ではどうすることもできなかった現実が描かれていて、その上で主将・河合が、この現実にうちのめされた高瀬を、そして自分自身を含めたチームを、全身でただ受け止めているからだ。


異常な程の緻密な野球ゲームの微分的描写は、その臨界地点で、様々なスポーツ理論・論理や心理戦、事実関係の編み目が消え去ってしまう“不条理”を浮かび上がらせる。桐青高校が負けたのは、主人公チームより努力や才能が足りなかったからか。崎玉高校の敗因は、そして崎玉高校に初戦で負けたチームの敗因は何か。それはいくらでも分析できるようでいて、最後の最後においては、どうしても因果も論理も追いきれないのではないか。そしてその不条理に襲われる敗者に、ひぐちアサは妥協抜きの事実を与えながら、しかしその視線は、不条理と無関係に肯定的なのだ。ひぐちアサが描こうとしているのは優劣ではない。運・不運ではない。強弱でもない。なぜ彼等は、能力や、性格や、境遇の違いにかかわらず、あるいはつきつけられた「現実」の差にかかわらず「キラキラ」しているのか。


たった一つ、このマンガで価値とされているのは「まっすぐ」であることだ。この「まっすぐ」を、スポーツで安易に表象される単純さだと考えてはいけない。それはおそらく、作家の意図を超えてラカンの言う「己の欲望を譲歩してはならない」という認識と繋がる。

ラカンが欲望の対象=原因と呼ぶ対象aについてのいちおうの考察を終えた今、そもそも欲望とはなんなのかというこれまで深く掘り下げてみることのなかった問題について、ラカンの考えを考察してみたいと思う。
しかし、その前に欲望というものを、われわれが本当に知りうるのかという問題があることを確認しておかねばならない。なぜなら、欲望とは、主体がその存在を失ったことと深く関係するものであって、知るということとは正反対の方向に向うベクトルだからである。


主体の喪失を示すシニフィアンがS(A)と公式化されるように、欲望においてもそれは根源的なものでありながら知を拒み、そもそも知との乖離自体がそれを定義するようなものとしてあった。このことをふまえたうえで、あえて欲望というものを明確化するとすれば、先に疎外の式で示したような知と存在との乖離の中で、両者の裂け目をつなぐ引力として、欲望を考えることができるのではなかろうか。このように、欲望とは去勢において決定的な何ものかが失われたのだという声を聴いた主体が、欠けたものを取り戻すべくそこへ向おうとする力としてある。よって、欲望が生じる基盤には空無の広がりがあり、そこから有を回復しようとする不可能な再建への試みとしてこれがあるということができるのである。
このように主体が消えた時点でこぼれ落ちたもの、つまり去勢によって切断され、無を書き込まれてシニフィアンの連鎖に入ることで形成された虚なるものからの呼びかけが欲望を生む原因にあるとラカンは考える。欲望とはこうした空無に侵された人間の宿命としてあり、主体の不完全性と主体の裂け目を示す刻印をめぐって、欠如を埋めあわせる失地回復の動きとともに展開していくことになる。(福原泰平『ラカン鏡像段階』p186-187)


飛躍がすぎるだろうか。誤解を防ぐために重ねて言えば、この作品の「まっすぐ」は、けして単にさわやか青春ドラマの「楽しい世界だけ描いて幻想をみたす」みたいな事でもないし、ましてや古臭いスポコンマンガの汗かいて勝負して勝って万々歳、みたいな単純さとも無関係だ。「おおきく振りかぶって」の「まっすぐ」≒「己の欲望を譲歩してはならない」という認識は、ひぐちの先行作「ゆくところ」「家族のそれから」そしてあの「ヤサシイワタシ」といった、各作品の流れの中で捉えられるべきだろう。


ここまで見れば、「おおきく振りかぶって」のゆきつく先が、スムーズなコミニュケーションにあるという見方は、間違いとは言わないものの若干の違和感が残る。それは恐らく主人公・三橋の事を考えるとはっきりする。三橋がうっとおしく周囲をイラつかせるのは、三橋が周囲を気にしているようでありながら、その実、自分のことしか考えていないからだ。三橋が他人の目を過剰に気にする行動は、パフォーマティブな水準では反転して周囲に対する「自分に過剰に気を使え」という命令になっている。だからこそ、その一挙手一投足が、周囲をいらだたせる。黙っているのは声をかけて欲しいからであり、上手くはなせない(話さない)のは「上手く聞いてくれ」という命令になっている。だからこそ、小さくなってメシくってるだけでムカつかれる。そこでの「小さくなる」という行為は、言うまでもなく三橋をいやおうなく目立たせ結果的に三橋を周囲の人間の視界において「大きく」気になる存在にしている。だから、転校前に三星学園で三橋が無視されていた(暴力ではなく無視、であることに注意)のは、かなりな程度必然性がある。


ここには例えば「全部オレの想像」で栄口が微妙に間違えてしまうような転倒がある。恐らく三橋は無視されていたから投手=マウンドに固執しているのではない。まったくの逆で、最初から投手に固執していた三橋は、だからこそいろんな軋轢を産みチームメートに無視されてしまう状況に陥ったのだ。より正確には、投球にこだわる三橋が周囲にとって異物になり、そのことがより三橋を投手/マウンドに過剰に固執する要因となるというサイクルがあっただろう。要はコミニュケーションが三橋の投球へのこだわりを生んだのではなく、順序として逆なのだと理解できればいい。三橋はフェティッシュなまでに「ボールを投げること」に固着している。そこでの「投球」は、最終的には野球である必然性と拮抗するまでになっている。三橋は、例えば花井の問いを(あるいは阿部や周囲の人の様々な問いを)、全部「自分が投球すること」に絡めてしか捉えられない。そこでは野球というものの中での投手の大きさ(つまり自分の大きさ)が明らかに肥大している。叶の「お前がやってるのは(野球とは)違うんだよ」という発言は思いのほか深い。この時、叶はけして三橋に同情して言っているのではない。遥かに痛烈な発言、ほとんど怒りに近い発言になっている。三星学園で「野球」してくれなかったのは、まず誰よりも三橋その人だ。


いわば三橋は、あまりにも己の欲望を譲歩しなさすぎたのだ。コミニュケーションを成り立たせないほどに、三橋は「まっすぐ」なのだと言っていい。このことが、周りの人間の「まっすぐさ」を阻害してしまう(畠などはその被害を最も受けた人間だろう)。だから、「おおきく振りかぶって」の物語りの行き着く先で成就されるべき夢とは、けしてコミニュケーションが潤滑になった結果投げることに固執しなくなった三橋の姿ではないし、ましてや単なる「勝利」でもない。いわば、誰もが誰かの犠牲になることなく皆「まっすぐ」であることが可能な世界の開示だ。勝ち負けは、優劣は、確率的に必ず誰かと誰かをわける。しかし、もしかして皆が「まっすぐ」でありながら並立してゆくことは可能なのではないか。この問いを問うためにこそ、三橋はコミニュケーションの在り方を習得し、「野球すること」を、少しずつ、何度かは転びながら掴んでいくだろう。


どうでもいいが、クソレフトはマネジとくっつくんだろうか。つまらんなぁ。しのーかはてっきり阿部を追って来たと踏んでいたんだけど、9巻の様子が自然すぎてなぁ(でもまだフラグは折れてないと思う)(阿部に冷たくフラれるマネジが見たい気が)。大地いい子すぎ。つうかひぐちアサは「男の子」を観察しすぎ。あと、西浦ーぜが誰ひとりとしてモモカンにふらつかないのはやはり不自然だと思うのだが。浜田だとイマイチ。巣山あたりとかどうか。