美術のさいたま/アニメーションのさいたま(1)
どこから話そう。とりあえず、昨年放映された二つのアニメーション「おおきく振りかぶって」と「らき☆すた」に描かれた「さいたま」が気になっている。「おおきく振りかぶって」(以下「おお振り」)の原作に関しては先日書いたが、このアニメ版に関しても言いたいことは多い。が、とりあえず、ここではアニメの背景(画)としてのさいたまに注目したい。「おお振り」は、原作者ひぐちアサの出身校、県立浦和西高校が舞台となっている。実際、母校を取材したひぐちは、そこかしこに浦和西高校やその周辺、また大宮球場や朝霞といった具体的な風景を描いている。もっとも、これは少なくともマンガの段階では単なる設定であって積極的な意味はない。緻密な野球ゲームに仮託された少年達の関係性の繊細さが「おお振り」の魅力であり、これをぎりぎりまで精密(忠実、とはやや異なる)にアニメに「翻訳」した製作スタジオA-1 Picturesと監督・水島努の力量は特筆すべきで、これについては別エントリを立てたいくらいだ。
マンガとアニメが文化圏として近いがために見落とされがちなポイントだが、いわばメディウムが違うもので「同じ」表現をしようとしている事に気付けば、この「翻訳」がいかに困難なことか理解できる(油絵で墨絵を模倣するようなものだ)。一般にテレビアニメで傑作と言われるものは「宇宙戦艦ヤマト」「機動戦士ガンダム」「新世紀エヴァンゲリオン」と、アニメオリジナルの企画だ。ここに昨年の佳作「電脳コイル」を加えてもいい。逆にマンガ原作のアニメは、その収益性の確実性から多数作られるものの、出だしから「傑作」にはなりえない宿命をもっている。希な成功例としては「うる星やつら」をはじめとして後に触れる「らき☆すた」等、原作を度外視して一種のネタとして扱い、ほぼ原作から独立してしまったものになる。あたりまえのモダンな論理が、こういう、一見ポストモダニストの草狩り場とされている所にも出ている。つまり各メディア(メディウム)は、各自の独自性に基づいて純粋化してこそ初めて自立的強度を獲得できるのであって、アニメにおける自立的作品の優位は、ポストモダン・アニメ批評の評価する作品群に、はからずも露呈している。
そういう意味で、水島努氏がインタビューでまず「原作ファンに喜ばれるように」と方針決定をしたと述べたアニメ版「おお振り」は、どう頑張っても、いわば原理的に傑作になれない。事実、このような文脈に曝されたアニメは、現場において、半ば諦めを持って製作されているのではないか。「名探偵コナン」「ポケットモンスター」「クレヨンしんちゃん」のように、幅広い人気から潤沢な資金とかなりの自由度を与えられているビック・タイトルでは、この諦めがポジティブに働き、与えられた枠組みの中でぎりぎりの挑戦が行われたりもするし、実際、部分的には批評的評価を獲得しているものもなくはない。だが、予算も時間もかぎられた深夜アニメという枠で、なおかつ原作に沿って作るという道を選んだ作品は、良くてファンを失望させない程度のものにしかなりえない。
例えばおたくではない、幅広い層が見るであろうことが期待されていた「NANA」は、深夜に放送されたアニメだが、この作品が深夜枠だったのは原作が主に20代以降の、かなりの割合で男性を含めた一般社会人向けだったためであり(実際、矢沢あいによるこのアニメの原作は、その中核に自分を世に問い承認を得ることと、それを経済的成功に結び付けていくことからくるギャップという、いわば働くという行為のジレンマを持っていて、この主題が男女問わず多くの会社員や働く人々に支持された要因になっている)、その人気の高さからある程度のクオリティを求められた。が、逆に洗練されたおたく的資産が活用できず結果としては、綺麗な紙芝居以上のものにはならなかった。こういった例は上げていけばきりがない。マンガを素直に映像にすれば、論理的帰結として紙芝居になる。にもかかわらず、アニメ版「おお振り」は、こういう条件下で、まったくニヒリズムに陥らず、同時に原作からも逸脱せず、むしろ徹底して原作の有り様をきちんとアニメとして伝えることにポジティブに挑んだ結果、傑作ではないものの一種独特な工芸作品として成立している。
既に迂回が長くなっているので具体的な例を簡単にあげる。アニメ版「おお振り」シリーズ前半の試合(三星戦)中、主力打者田島が相手投手のフォークボールをステップして踏み込み打つ。この踏み込みの動きは一瞬だが、これこそマンガでは不可能な、アニメーションという言葉の由来を思い起こさせる鮮やかなものだ。また、背景画では桐青戦中、主人公投手が、疲労から転倒しそうになるところを相手チーム主将が支える場面がある。この後、投手が打者として塁に出た時、監督が走塁を指示するのを見て、捕手が「投手が転びそうになったことを監督に伝えればよかった」と後悔するシーンがあるが、アニメでは、この転倒しそうになった投手を相手の主将が助けたシーンで、背景に主人公チームの監督が背を向け担当教諭(シガポ)と話していて状況に気付いていない様子がごく小さく描かれている。原作にはない構図だ。他、あげればきりがないが、こういった、原作を壊さず、むしろ豊かにアニメ化するための改変が構成、シナリオ、動画と様々なレベルで驚く程細かく行われている。つまりマンガ→アニメという翻訳(単純な置き換えではない)の精度が追求されている。原作の「おお振り」において翻訳というプロセスが重要であることは以前指摘したが(参考:id:eyck:20070124)、偶然にせよこの翻訳というものの重視まで含めてアニメ「おお振り」は原作に忠実と言いたくなる。
とにかく、アニメ版「おお振り」は、貧しい深夜の原作付きテレビアニメという制約に正面切って挑み、しかも成功を納めた(おそらく原作ファンでなくてもその完成度からかなりの人が楽しめるだろう)。この困難さの中で、アニメが原作マンガに対してはっきり優位なものがある。音と色彩だ。動きが筆頭にあがると思われるだろうが、これはリミテッド・アニメを基本としている、しかも資金や時間が十分でない深夜アニメにおいては、実はむしろ「不利な点」になりかねない(有名な例では「ロストユニバース」という深夜アニメは、あまりの破綻に逆に特殊な評価を得てしまった)。音に関しては、「おお振り」では応援席のブラバン音楽に十全なウエイトを置いたところに成功のポイントがある。桐青戦最終回の「打ち上げ花火」の使い方などには震撼させられたが、これはさておく。私がアニメ版「おお振り」において着目したのが色彩と空間、ことに背景美術だ。
ようやく本題に入れるが、このアニメ版「おお振り」における背景、すなわち浦和西高校とその周辺を中心とした風景の描写は、現地を知るものには独特のリアリティを感じさせる。はっきり言えば、背景美術のクオリティとして「おお振り」は特別な水準を見せているわけではない。丁寧な仕事だが、意図的にここに注目する人は僅かだろう。アニメの背景美術というなら、最も高い評価を得ているのは宮崎駿「もののけ姫」における白神山地をモチーフにしたシシ神の森だ。濃密な描写はたしかに原始林の密度と豊かさを見事に再現していたし、東京都現代美術館のコネクションという文脈があったとはいえ、大きな美術館で原画の展覧会まで開かれ画集も出版された。対して、「おお振り」の背景は、端的に言って薄い。そして、私が見るところでは、この薄さ、それは豪華な「もののけ姫」に対する深夜アニメの貧しさともリンクする薄さだが、これこそが「さいたま」という風景のリアリティをはからずも再現してしまっている。このリアリティは、言ってみれば我々の「環境」(東浩紀)に密接に関わっているように思える。(続く)