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・昨日は土曜日の対話企画の、実際的な面の打ち合わせでmasuii R.D.Rに夕方寄った。会場に入ると資料スペース(とはいえここにも作品が複数あるのだが)に古谷さんの、出来上がったばかりの著書が置いてあって、手に取った。ぱらぱら眺めるだけのつもりだったのだけど、「はじめに」を読み始めたら止まらなくなって、結局この前文を読みきってしまった。
・古谷さんの「はじめに」に書かれているのは、作品、というものに対する、厳しくもすっきりした姿勢だと思う。1冊全部を読んでいない段階でこんなことを言うのも拙速だけど、すくなくともこの「はじめに」を読んだ範疇では、古谷さんは、自分が面白いと思った作品について、できるだけ正確に、精密に書こうとしているのだと思う。
・目次を見れば分かるように、ここにはいろんなジャンルの作品が並んでいる。映画、演劇、古典絵画、同時代の美術、アニメ、小説。しかし、この目の回るような横断性は、なんのアクロバティックな仕掛けでもないし、きれ味のいい「理論」で何でも簡単に一刀両断、というのでもない。古谷さんが生きて来たなかで自然に触れ、魅了された作品が当たり前に並んでいるだけなのではないか。そのことに気づけば、同時代を生きるだれであっても、ある程度の「横断性」は持ち合わせている事に気づく。なのに、古谷さんのこの本が際立っているのはなぜなのか。
・それは、多分、言葉の問題-というより、言葉の取扱いの問題なのだと思う。我々はカテゴリーとかジャンルとか、あるいはそれらの社会的コンテキストを含み込んだ形で作品に触れる。そして、それについて語るときは、自分自身もそのようなコンテキストに組み込まれることを無視して語ることはできない。そこでこそ、言葉はジャンル化され分節を内面化されてしまう。だが、ある作品を面白い、と感じた、その事件や出来事は、そういった分節によって抑圧される。
・古谷さんはそのような抑圧から自由だ。より正確に言えば、自由であるための戦いを、言葉を書く、という現場で行っているのだと思う。この、戦いの痕跡が隠されていない「はじめに」を読むと、「組立」の最初の打ち合わせの時に私が古谷さんに言った「個人的には古谷さんの文章は、活字になったものより『偽日記』の方が面白いと思う」という発言は覆さざるを得ない。もう、古谷さんはwebとか書籍とかそういう「ジャンル」からも自由になったのかもしれない。そのような戦いの当然の帰結として。
・勢いで「おわりに」も読んだ。この日、この本の見本を持って来た古谷さんは、私が着く30分前まで会場にいて、ギャラリーの増井さんと話していたそうだ。私は一人で黙って本を棚に戻した。意外と思われるかもしれないけど、この本が「組立」会期中に発刊されたのは偶然だ。前述の打ち合わせの途中で、私は初めて古谷さんから本の計画を聞かされて、しかも発売は6月から9月くらい、と言っていて、ということはおそらく9月になるんだろうな、と私は思った。そしたら、あれよあれよと古谷さんは忙しくなってしまい、この25日には発売、となったのだ。