・本当に美しい夏日。こんなにきれいな午後は、1年に何度あるだろう。


・気付ば展示が終了してからもう4日以上過ぎてしまった。いつも思うが、展覧会というのはあっけないものだと思う。「組立」は小さな試みだったけれど、あの横浜トリエンナーレだって3ヶ月ちょっとしかやらないのだ。スケールの違いを考えるなら、横トリのあっけなさも相当なものだと思う。要するに、展覧会というのは、そういうものなのだ−80年代演劇風に「それは風に記された文字である」と言うのは少々ロマンチックにすぎるとしても。


・それにしても、今回の「組立」の展示は面白かった。私や古谷氏をシンプルに「モダニスト」と考えていた人(揶揄ではなく、そんなふうに私を認識してくれているというのは、私の知名度から考えれば-古谷氏は別として-むしろありがたいくらいなのですが)は、ちょっと驚いたのではないか。あの展示は、どこをどうひっくり返してもモダンなものではない。搬入時に私はおどけて「ピッティ宮殿みたいだ」と言ったのだけど、もちろん単なるプレモダンでもない。


・私は会場に全日程を通していたのではなく、時間のできた時にふらりと寄ったりしながら適当に通っていたのだけど、これほど「行った回数分変化がある」展示、というのは初体験だった。私は自分の展示会場をわりとしつこく見る方だけど、2週間いればだいたい前半でそのプランの問題点や、アトリエで気づかなかった作品のポイント(良いところも課題も)などが、一通りチェックできる(もちろん小規模な展示しかしたことがないからだが)。ところが、今回の展覧会では、結局最後まで展示の全部を把握しきった、という感覚がない。


・私がこの展示が何かに似ている、と思いついたのは、荒川+マドリンギンズの「養老天命反転地」だった。荒川+マドリンギンズに関しては、コンセプチュアル・アートのインストラクションが排除したマテリアルの再導入という、論理的エラーに彼らの可能性と弱点を見るというエントリを昨年書いたが(参考: id:eyck:20071106及びid:eyck:20071117)、彼らの仕事で私が最も良いと思うのが「養老天命反転地」だ。


・上述のエントリにも書いたし、現地を訪れた人なら誰でも了解できると思うが、「養老天命反転地」のラフさは相当なものだ。実際、それは様々な現実条件から「きれいな仕上げ=フィニ」を施されることなく、本当にざっくり荒川+マドリンギンズのコンセプトをミニマムに(あれでミニマムなのだ)実現したに過ぎない。しかし、そこを歩きまわる経験していると、別に彼らの現実離れした言葉を特に信用していなくても、ある感覚の変容が自分に訪れることは確認できる。歩きにくく、一目では理解しがたく、正直疲れる。私は彼らの誇大妄想的な発言を「誇大妄想だ」と思っているから、多分死ななくなったりしていないが、しかし、あの感覚の変容は、確かに私の中に残っている。


・そして、そのような感覚の残り方に、今回の展覧会の質、というものと、どこかで類似性を感じるのだ。今回の展示の骨格を組んだのは、膨大な作品(なにしろバックヤードには展示作品に匹敵する量が積んであったのだ)を持ち込んだ古谷氏だったかもしれないが、それを迎えて、古谷氏の作品の数や展示に一切留保を示さず、こちらも1点たりと展示作品の数を減らさなかった私も、十分あの空間の質にコミットし得た。私は自分で、いまさらながら良い判断をした、と思う。そして、「組立」の第一回を古谷利裕氏という、特異な資質の持ち主と出来たことを幸運だと思う。


・あの展覧会を見て下さった皆さんの中に、もし、何か「奇妙」な感覚を持ち得た人がいらっしゃったら、とても嬉しく思います。あの、クールでシックで「見やすい」モダンな展示とは対局にあった空間に、何かしら飲み込みがたい塊のようなものを感じて下さったら、私としては十分です。無論、それは批判を封じ込めるものではない。個別の作品に対する判断も勿論別途です(重要なのは言うまでもありません)。それは「モダン」な立場から見れば、はっきり逸脱した展示ではあった。同時にそれはシアトリカリティからも離れていた。では、何だったのか。それを考えることこそが、「組立」の最終工程の一部をなすと思っています。


・おそらくヒントはここに。「組立」専用blog(http://d.hatena.ne.jp/nagase001/20080421)から引用。

小説だと、例えば20枚のつもりで書き出して、結果として200枚になってしまうということはあり得ると思うのですが、絵画で、15号のキャンバスで描きだして、出来上がったら150号になっていた、ということはあり得なくて、しかも、どんなにフレームを大きくしても、基本的にその全体を一目で見渡せてしまうということもあり、加算してゆくことのできる文章や、彫刻などよりもずっとフレームの縛りが物理的にキツいので、そこをどう外してゆくのかは、常に意識してしまいます。
全体の大きさが、つくる前に与えられてしまっているので、書き出す前から、ぴったり8000字で、一字の誤差もなく仕上げて下さいと依頼されるのと変わらない感じでしょうか。そこで無意識のうちに作動する「納めよう」という感じが(おそらく未来を先取りさせ)、なにかを失わせてしまう、というか。小さいフレームになればなるほど、フレームによる拘束感は強まるので、そこでどうそれを外せるのか、と。ただ、それはたんにバランスを崩すということではなくて、「見る」ことが解決されない状態をつくるということで、外すことが目的化しても困るのですが。(文章について-絵画について(4)4月14日 古谷利裕 wrote:)