hino galleryで小林良一展を見た。100号(160cm×130cm)くらいから130号くらいのキャンバスに油彩で描かれている(別室には小型の作品もある)。ほぼ全てが縦構図であり、側面にはタックスが打たれている。絵の具の塗りはマットで、あからさまなマチエールや重厚な厚みは見られない。彩度は高く、補色対比が使われることで画面はハレーションをおこしている。色面の境界では筆のかすれやはねがみられる。網状の形態が、オールオーバーに広がっている。


視覚的な効果の強い作品で、一瞬ブリジット・ライリーなどのオプ・アートを想起させる。例えば小林氏の、2004年の個展(参考:id:eyck:20040723)では、視覚的なちらつきが見えながらも、その色面は不均一で色面どうしの境界は揺らいでいた。そのゆらぎが一種の不安定さとなり、多くの作品では上手く着地ができていないように思えたが、今回の作品群はいずれも色面相互の関係が明快となり、その境界線の扱いも精度が緻密になり安定した質を確保している。これは小林氏の、自己のスタイルを打ち崩し脱出しようとする試行錯誤が、鮮やかに結実した成果のように見える。


マットな色面や抑制された境界の処理、そして絵の具のスペック的に高い彩度と補色対比のエフェクトが確かに「完成度」に結びつきながら、しかしそれが単なる工芸的なインパクト勝負のグラフィカル・イラストレーションに落ち込まず、どこかノーブルな絵画として成立しているのは、小林氏の絵の具の押さえ込み方に理由があるように思う。マットな色面に近づいて見てみれば、その表面が、過剰に強く塗り込められているのでもなければ単調に色に覆われているのでもなく、いわば絵の具・キャンバスと対話するように、これしかない、というジャストな接し方で触れているのが見てとれる。このような堅牢な絵画表面の構築が、ぱっと見派手な視覚効果と見える色面相互の関係に意外な複雑さを付与している。


この「複雑さ」を見ないかぎり、今回の小林氏の作品の質は把握できない。画面の各要素が、相互に絡まり合いながらも分離するという相反する作用が、しかし同時に成立する、言語でどう記述してよいのかわからないある「事態」は、上記のような繊細な画面構築によって、絵画の物理的な位置(それはキャンバス表面の事だと言っていいが)から完全に離陸し、キャンバスよりずっと手前、あるいはずっと奥で生成しているように思われる。しかも、そのような“立体的な平面”は、いわゆるオールオーバーな抽象表現主義的深奥空間とはまったく無関係な空間を形成しているのだ。この確定できない位置、物理的な平らな面から切り離された複数基底面空間こそ、言葉の真の意味での「絵画空間」なのであり、このような抽象性の獲得は、歴史的にも地理的にも、ちょっと他に類を見ないものになっているのではないか。


小林氏のこの挑戦とその成果が厳しくソリッドに見えるのは、こういった作品の作成が、「方法」によるスタイルとしては確定できないだろうと予想できるからだと思う。一度このような作品を「方法」によって量産しようと思えば、たちまちそれはシンプルなオプティカル・エフェクト装置となって「絵画」であることをやめてしまうだろう。小林氏の作品は、常に何事かの実験として組織されている。だからこそ、この高度な作品群すら、ある行程の一部分なのだろうと思える。


●小林良一展