・最近は暑くなって出ていないが、先月上旬までとかはよく子供と散歩をしていた。私の家の近所にはあまり大きくない(つまりそんなに堤防とかが整備されていない)川があって、その河原を長男を載せたベビーカーを押していく。そうすると、彼が生まれる前には気づかなかったことに気づき、今まで流していた様々な物事に感覚を向けている。草に覆われた河原のでこぼこがベビーカーを通じて私の手に伝わる。伸びたツル性植物の葉先が気になる。隣の車道の車通りをそれとなくチェックしている。気温が暑すぎないか。寒すぎないか。風の強さを肌で確認している。日差しが子供の顔に直接当たらないか?太陽の高さと向きを随時押えている。


・刻々と変わる世界の情報が、常に私の意識にあがっている。それは、もちろん子供にとって害がないかどうかという、現実的な意味を伴ってもいるのだけど、実際にはそういう意味が発生するのはごく一部で(草は絶え間なく現れるが、子供の手や顔にかかるような生え方をしているものは稀だ)、だとすると、私はそのとき純粋に、いままで意識しなかった風景のディティールをただ楽しんでいる。かつて一人でこの道をあるいていた時とはチャンネルの数も帯域も膨大に増えている-まるで、自分に装備されたレンズやセンサーが、子供が生まれる事で一気に活性化したかのようだ。


・こうした事は、多分子供を持った親なら有る程度は自然に経験することなのかもしれないけど、私はそれをとても意識的に、ひとつづつ、驚きと喜びをもって経験した。その理由ははっきりしていて、磯崎憲一郎氏の小説「肝心の子供」を、長男の誕生と同じ時期に読んだからだと思う。


・「肝心の子供」は、父(達)と息子(達)の話なのだけど、そこにはいわゆる「父と子もの」みたいなべたべたした手触りはない。読みすすんで行く時間の中で、この父(達)と息子(達)は、どこかカメラのレンズの切り替えのようにかしゃり、かしゃりと入れ替わる。たとえば冒頭、馬に乗って歩んでいくブッダは、時に応じてズームもしながらも、おおよそ目前の視界を丁寧に見てゆく映画的なカメラなのだけど、これがラーフラになると、彼の視界は時間(履歴)がすべて堆積するネット・ブラウザのようになる。目に入るあらゆるもののデータが消去されることなく記述され表記されている。ティッサ・メッテイヤは虫眼鏡として登場するが、この虫眼鏡は虎に追われぎりぎりの所で森の木に駆け上り頂上についた瞬間に超広角レンズに切り替わる。物語はそこで終わる。


・この小説は、ものすごくベタな影響となって、読後に私の生活にあらわれた。それが先述の、子供と散歩する時の、自分の感覚器官のスペックの増大に対する意識的な喜びにつながっている。風景に対する感覚だけではない。もっと奇妙な感覚もある。視覚情報に意味付けが十分に行われておらず、あらゆる刺激が霧や雲のように混沌としているだろう子供(生後1-2ヶ月の子供は、自分の手が自分の目の前を通り過ぎたのを、「自分の手」としては認識できず、なにか黒い影が横切った、くらいにしか看取できない)と一緒にいると、自分の視界からも、どこか分節化や意味付けがはがれ落ちるような感覚がイメージされる。


・もちろん、実際にそんな事は起きない。しかし、なんとなく、いつの間にかやっている「音」と「視覚」と「におい」と「触感」の区別が、ふと曖昧になるような気配は持つ事ができる。そして、そういう気配を持つと、逆説的な話だが、音や光がかえって際立って見えたり聞こえたりするのだ。これは、多分間違いなく「肝心の子供」を読んだ影響だと思う。そして、「肝心の子供」という小説は、磯崎氏が、やはり実際に子供を持った、という現実があってこそ書かれた作品なのだろう。


・このような父(達)と息子(達)の“使われ方”が、小説を形作るための装置として作られたのではないところが「肝心の子供」の独自の豊かさ、湿り気はないのに豊穣な感じがする理由な気がする。


・「肝心の子供」という小説は、とても抽象的なところがあるにも関わらず、濃厚に現実とつながっている。というより、その小説としての(つまり「作品」としての)高度な自立性・抽象性においてこそ、作品の外の現実とつながっている。


・例えば私がある女性を美しい、と思った、その現実を「作品」に繋げるためには、その女性をモデルに写実的な絵を描けばいい、というものではないだろう。その時感じた、心の震えみたいなものが、絵画の画面の中で成り立つように、絵の具の質や色彩の強さ/弱さや線の組み合わせを再構成しなければならなくなるだろう。そのような、心の震えが成り立つような作品には、もしかすると女性像のようなものは全く出てこないかもしれないし、出てくるかもしれない。いずれにせよそこでは、絵画は、絵画作品として、高度に抽象的で外部との直接的なつながりのない、自立的な作品となっているだろう。そして、その作品は、その自立性において(ここが不思議なところだけど)世界と(つまりあの魅力的な女性と)繋がっているのだ。


・全然関係ないけど私は「肝心の子供」を読むと自由のイメージを持つ。それは、子供と一緒にいるときに、私は明日家を出て、そのまま家に帰らない、という事ってありうるのだな、と思えてしまうことだ。それは私だけのことではなくて、子供が、ある日家を出て、そのまま帰ってこない、という可能性でもあるのだ(更に言えば、子供の母体が買い物ついでに出て、帰ってこなくなるかもしれない)。「肝心の子供」において、家族は求心的ではない。さだめ(約束)のようなものと、そこからの離反?


・もちろん、そこには残酷な面がある(例えばブッダに置き去りにされた家臣の「いっそ亡くなってくれたほうが」というような発言と、それをヤショダラが絶対に許さなかったエピソードのように)。だけど、自由、というのはそもそもそのくらいソリッドなものなのだ。「肝心の子供」が、現実の世界と切り結んでいる関係は、とても繊細でかつ強い。作品として、くっきりと立ち上がっていながら、まさにそのことによって現実そのものに浸透してゆく。変な本だと思う(一昨日「組立」の資料ファイルを作っていたら、「肝心の子供」のことが思い出されて、いまさらながらこんなまとまらない話を書いてしまった)。