両国でART TRACE GALLERY GROUP EXHIBITIONの第1期を見た。有原友一氏の作品を見て思ったのは、絵画が、あるいは作品が「良くなっていく」というのは、こういうことなのだなぁ、ということだ。有原氏の作品は2005年にやはり同じART TRACEでみている。その時と今回のグループ展で、有原氏の作品の構造はほとんど変っていない。大きな、うねるようなストライプや色面が、画面を様々に分割しつつ、そのストライプの内部は完全にフラットな塗りにならず、筆のタッチが微妙に色彩の偏差をもって積層されている。どこかドローネーのような画面なのだけれども、繊細さと有機性を持っていて、マチエールもけして強くない。そういった、いわば有原氏のスタイルのようなものは一貫していると思うのだけど、前回に比べて“精度”が格段に上がっていると思う。精度とは何か、と言えばそれは個々の色調の関係性の精密さであり、うねるストライプの面積の強弱の厳密さであり、それらを形作るひとつひとつのタッチの丁寧さだ。


こういった、画面作りの全てのレベルが上がることと、画面の工芸性が高まることは異なる。絵を描く者は時に、クラフトの完成度を上げて(ボードレール言うところの「フィニ」だ)、パッと見きれいな仕上がりを見せる、しかしどこか退屈なアクセサリーを描いてしまう。こういうことはある程度は宿命的な事で、どうしても同一のスタイルで枚数を描けば誰でも上手くなってしまう。つまり個別の描きが職人的なワザになってしまう(あらかじめ効果の定まった工程になってしまう)。そういった作業の積み重ねは人を感心させることはできても、見る人の知覚・感覚に作用していくことはできない。有原氏が今回見せている精度の高さは、そういった工芸性から(危うい所もありつつ)身をかわしている。一定の経験を踏まえながら、しかし、絵を描く時間を単なる同じ事の反復にしてしまわないで、個別の所作から雑味を除き、自身の作品が生み出す固有の絵画空間の純度があがっていっている。結果、有原氏の作品が真直ぐになっていっているような印象を受けるのだ。


境澤邦泰氏の作品は新作と旧作があるが、新作が新鮮に感じられた。境澤氏の作品と言えば、タッチが画面に散乱したような状態のものと、それらが塗り込められたかのような作品の並列が特徴的だけど、以前見た個展では、私は明らかに完成途上に見えたタッチのあるものよりは、最終的に作品として言い切られたものの方に強度を感じていた。もう少し踏み込んで言えば、タッチの点在した作品は、完成作が単なる塗込めた単純なものと見られることを恐れた(絵画を見る力のある人ならそんな誤解は生じないと思うのだが)ための展示のようにも思えた。邪推と言われればそれまでだが、なまじ強さのある作品と一緒にあると、説得力に欠けて見えてしまっていたのは確かだと思う。それが、今回の新作は、余白(キャンバスの地)が大きく見えているものであるにも関わらず、未完成に見えない。


個々にそれぞれの作品としての独立性をもった域に到達している。これはタッチが余白に対して集中力を持って置かれているからだと思う。以前のものが、どうしても途中に見えたのは、恐らく、描く場面でどこか「これはまだ決まらない」という意識があり、それがそのまま作品として提示されていたからではないか。それが今回の新作では、「これで決める」という意志が強まっているように思える。どれも小さい作品だが、このサイズにも必然性が感じられる。また、タッチは恐らく純然たる抽象ではなく、どこかで外部、はっきり言ってしまえば風景と接続している。このタッチの集中力の高さだけでなく色彩まで含めてセザンヌへのコメンタリーとして見られるべきもので、この清潔感は、これ以上筆が進めば壊れてしまうだろう。見ようによっては清潔すぎる、とも言えるかもしれないが、例えばこれらの作品が持つ緊張感が、もう少し大きな画面でも維持されるのかは興味深い。


高木秀典氏の作品は初めて見た。パターンの反復が綿布キャンバスに描かれることで、どこかファブリック、というかテキスタイル的な感触を想起させる作品だが、これが単なるデザインではなく絵画作品として成り立っているのは、この画家の視覚性への興味が、作品を一種の装置にしているからだと思う。「うさぎ」は、鮮やかなブルーを綿布に均一に染込ませながら、抜いた(つまりそこだけ描かない)形態を微妙な距離で散らしている。この散らしが等間隔のようでありつつ、中心からすこしずれた場所で1箇所だけ極端に近付けた配置をする。更に、ほとんど同じような図柄で、拡大率を上げたかのような作品が並列して置かれている。現象学的というか、見る人の視覚をテストするような構造を持った作品であり、とても面白い。もう一点の横に長いフレームの作品も、単一のパターンの反復のようでありながら微妙にグラデーションを用いて錯視的なエフェクトをもたらすもので(タイトルは失念)、しかもそれらがデザインとしても好感がもてる上手さがある。この上手さにひっかかって高木氏の作品を単純なイラストレーションと判断する人は少ないだろうが、もしいたとするなら、そこまで含めて高木氏の悪意(仕掛け)かもしれない。


中嶋浩子氏のインスタレーションはやや小慣れていない。この作家も初見なので曖昧にしか言えないが、過去作品のファイルを見ると、そちらの方がグラフィカルな「決め方」は決まっているように思える。印刷物の写真を切り張りして集積させ、人体を仮構するという手法なのだが、その集積のさせかたがラフなので「小慣れていない」ように見えるのだ。恐らく相対的に成功しているのは人体ではなくたくさんの蝶々の方だろう。薄い印刷物の断片と、蝶々というモチーフが上手くフィットしているためで、人体のようなボリュームのあるものは技法的にマッチングさせるのが難しい。これを説得力あるものにするには、有原氏への言及とは反対だけれども「工芸性」をあげるべきなのではないだろうか。フラットな素材の特性を考えると、今回の蝶々の方向性を展開させた方が良いと思える。作品に社会的・メディア論的な含みがあるのであれば、まったくおなじオペレートをデジタル上でやるという方向性(webの画像をパスでクリッピングして映像化する、といったバリエーション)もあると思える。


●ART TRACE GALLERY GROUP EXHIBITION