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立原道造の設計した小屋「ヒアシンスハウス」が浦和の別所沼にあり、週末に見に行った。これがとても気持ちの良い空間で、びっくりした。詩人としての名前しか私は知らなかったのだけど、東京帝国大学建築学科で丹下の上級でもあり、学内で賞も受けるような、優秀な人だったようだ。私がこの建物を知ったのはある所で借りた「住宅建築」360号掲載の記事によってで、それによると「ヒアシンスハウス」は友人の画家が住む別所沼に、立原が自身の週末別荘として計画したものらしい。昭和14(1938 )年の「新建築」に案が掲載されている。当時の別所沼は画家が多く住んでいたことから、立原の卒業設計「浅間山麓に位する藝術家コロニィの建築群」との関係も指摘されているようだ。上記「新建築」掲載の図面や友人宛の手紙に描かれたスケッチを元に有志が実施設計を行い、2003年に別所沼公園内に建てられたもので、一般にも公開されている。
南北3メートル、東西6メートル程のごく小さい建物で、このコンパクトなカプセルに小さなテーブルと書斎、そして寝室がついている。実現案にはトイレが外され洗面台がある。独身者であればなんとか生活できる“最小限中の最小限住宅”と見えなくはないが、炊事ができず風呂がない事を考えれば、コルビュジェのカップ・マルタンにある休暇施設と同じく「小屋」と呼ばれるべきものだろう。プランの上では別所沼西岸だったものが東岸に移されている(立原案で計画されていた場所は現在民家のため)。東西に長い直方体は南側中央に穿たれた玄関で大きく二分され、東側が机のある小リビング、西側が寝室となる。双方を繋ぐ形で北辺がつくりつけ机を持つ書斎となる。小リビングは南面と東面の角に大きな開口部があり、書斎の北面には横に連続した長い窓がある。奥まった寝室には小さな小窓がある。屋根は東側から西側に大きく傾いた片流れで、これも開放されたリビング→閉じた寝室、という分節された空間の性格に対応している。
無駄なくすっきりとした合理的近代建築で、一見して立原の「頭の良さ」が感じ取れる。私は以前マッキントッシュ(建築家のことではなくアップルコンピュータのパソコンの話し)のG5が発表された時、外部のデザインではなく内部構成の納まりのよさが強く印象に残ったのだけど、「ヒアシンスハウス」を見て連想したのがG5の内部だった。コンパクトPCの流れを無視している大形のG5と「小屋」では適当な比較ではないだろうけど、要は外部のフォルムより内部空間の、ぴったりとしたフィット感、隙のなさの生む美的感覚がインパクトがあるということだ。
今ふいに「美的」と言ったけれども、この立原の「近代性」の骨格を形成しているのは明らかに「美的なるもの」と思える。コルビュジェ的機能主義とそれがもたらす社会的プログラムは、コミュニズムに基づいた大きな物語=世界の変革に主眼があったとおもうのだけど、立原のコルビュジェ受容(あの北面の横に長い窓を見れば、そう言っていいと思う)は明瞭に「美」に特化してはいないか。“ユートピア”の設定の仕方が、立原はコルビジェとは明らかに違う。言ってみれば内的な「想像力の革命」=小さな物語に軸足が移っている(それを象徴するのが湖畔側に向けて計画されていた寝室の小窓だろう) 。この「ヒアシンスハウス」も、いわば週末だけの「休憩場」であることは押さえておいていい。逆に言えば、この建物を訪れるとコルビュジェの「美的」な側面を、立原は極めて早い段階でピュアに吸収しているという直感が持てる。「住み良さ」と「住み心地よさ」を分けて後者を称揚した立原は、合理性や数理性にこそ感性的「美」を見た人間であり、これは多分日本におけるモダニズムの受容の、大きな流れになっている。
訪問当日の心地の良さは鮮烈だったと言っていい。連日35度を超える猛暑日続きの正午近く、日差しを避けて木陰を拾いながらこの建物にアクセスした私は、玄関の狭い戸をくぐる一瞬、強い日光に絞られた瞳孔の調整がふと遅れて暗転したかと思った、直後に湖畔に向かって広がった南東開口部が目に入り込んで来た。この沼が本来反対側、寝室の小窓から見えるようプランニングされていたというのが、なんだか腑に落ちない気がする、そのくらいこの開口部の形成するフレームは映画的だ。角に1本残る柱がこの映画性をむしろ高めるかのようで、もし狙ってのことなら立原道造という人はビジュアルな感覚も十分鋭敏だったのではないか(残された「ヒアシンスハウス」のスケッチの達者さからもそのことは伺える)。そしてこの開口部から流れる風が、驚くほど涼やかで快適なのだ。水を渡った後の風だからかしらないが、冷房の効いた室内にいるより遥かに過ごし易い。管理をしているボランティアの方も、暑いと感じないわけではないが1日いられるとおっしゃっていた。ここ数日の埼玉内陸の気温を考えればちょっと不思議なくらいだ。後で少し散歩した公園全体も気持ち良く、たぶんこの別所沼ほとりというロケーション自体が夏過ごし易いのかもしれないが、こういう場所を選んだという事自体が「ヒアシンスハウス」の個性の基盤と言っていいだろう。
もちろん、この涼やかさと立原道造といえば信濃追分が連想されて当然なのだけど、私が現場で追分を思ったのは個人的な思い出からだ。伯母が信濃追分に別荘を持っていて、私は子供時代、夏休みの度にその別荘を訪れることになっていた。別荘といってもそれこそ小屋で、ワンルームの質素なものだ。トイレは別棟、風呂はなく、かなり離れた所に有るお豆腐屋さんに湯を借りに行った。水道がなく井戸水を湧かして使った。何の遊び道具もレジャー施設もなかったが、朝から晩まで白樺の林を歩きまわっているだけで十分面白かった。8月も後半になると夜は毛布が必須となるほど涼しい。今は新幹線しかないが、当時は釜飯を食べながら在来線で北上し、今よりはよほど静だった軽井沢・中軽井沢を経ておりる信濃追分駅は本当に田舎で、そこから歩いて30分以上かかるその別荘は、子供心にはどこか冒険めいた気分にさせてくれる空間だった。後に水洗トイレと風呂とキッチンのついた新棟が増設されたこともあって、「ヒアシンスハウス」とは無論別ものだが、私が一番熱心に通ったころの素朴な佇まいは、どこか道造的なものがあったと思う(おそらく偶然ではなくて、わざわざ追分に別荘を持った伯母夫婦は、どこか文学的感性に基づいてこの土地を購入したのではないか)。
「ヒアシンスハウス」が外部の共同体、それはおそらく卒業設計「浅間山麓に位する藝術家コロニィの建築群」と重ねられうる近隣の芸術家達のネットワークを前提としていることは、炊事や入浴を外部化していることからも確かだろう。軽井沢-追分的別荘イメージというよりは、都市的な住まい方、あらゆるサービスを外部化した中でカプセル的な狭小空間に生きる単独者(都筑響一的TOKYO STYEL)、という視点から見た方が現在性があるかもしれない。狭小住宅というのは一種の流行のようなところもあるが(そういう名前の雑誌があったくらいだ)、利便性を求めるエゴを上手く工夫して詰め込み表面を上手く化粧した貧乏くささよりは、確かに内的豊かさを感じさせるという点でむしろ反時代的な面白さがある建物だと思う。