藍画廊で見た鈴木敦子という人の作品には、なにか特別な感触がある。この感触、というのは見た目の美しさ、というのとは少し違うし、批評的に面白い、というのでもない。なにか、自分の全身の神経を、ゆっくりと心地のよい信号が伝わってゆくような、そんな感触なのだ。


そこで行われているのはささやかな仕事で、小さな木枠に薄い布が張られ、そこに糸が通されたり絵の具が乗せられたりしながら、木の葉と見えそうなイメージや、茫漠とした空間を感じさせるような画面が作られていく。出来上がっているのは壁にかけられたキャンバスなのだから、それはやはり絵画、と呼ばれるものなのかもしれないが、そういったカテゴリーは、鈴木敦子氏の作品の前ではほとんど意味を失う気がする。ただ、小さい木枠と、薄い布と、細い糸と、細かな絵の具のタッチが丁寧に、あまり緊密にならず、どこかほろほろとばらけてしまいそうになりながら、わずかな力で組み合わさって、独特の空間を形成している。


この空間、というのはいわゆる抽象絵画が作る深奥空間とも違うし、三次元的なイリュージョンの再現でもない。目からもたらされた情報が、触覚などの記憶をどこかで呼び起こしながら、しかしけして過去の特定の記憶に結びつくのではなく、今目の前にある作品とそれを見ている自分の関係からだけ立ち上がる、感覚の絡まり合った複雑な「何か」だ。


服の型紙を仮縫いしたしつけ糸の軌跡、あるいは子供の小さな浴衣をはぎれで簡単に作った、その縫い目の簡単さがもたらす儚いような、しかし忘れがたい強い感覚。そういう感覚を純粋に抽出して、独立した形態にしてみたのが鈴木氏の作品かもしれない。全ての素材が隠されず表れており、全部が一挙に知覚できながら、しかしそれがもたらす多種多様な見るものへの働きかけは、記述しようとすると終わりがなくなるかのような膨大な細かさに細分化される。


鈴木氏の作品は小さい。しかし、結果的に表れたイメージを意識しながら、同時に薄い生地の織組織をくぐる糸を目で追い、その間に点々と置かれた絵の具のタッチを追い、その向こうに透けてみえる木枠の影を感じていると、その小ささはとても充実した時間を形成してゆく。見飽きない、という言い方はありきたりなのだろうけど、実際に、このような特別な技法が使われているのでも、ボリュームで押してゆくのでもないような内容で、こういった充実を形作るのは至難ではないか。


鈴木氏の手つきは丁寧で繊細なのだけど、そこには「人の目」を意識したようなところがない。だから、その丁寧さは、仕上がりの見た目を目指されたものではない。ただただ作品に対してだけ丁寧で繊細なのであって、そこには目標も狙った効果もない。作品は作品だけで完結しているが、だからこそそれは見る者に強く働きかける(この、鈴木氏の作品の弱さ・脆さが立ち上げる「強さ」は不思議だ)。


刺繍の時に使われる丸い木枠(フープ)を連想したりもしたが、鈴木氏はそういう手芸性からまったく切り離されている。それは上記のように、作品が作品として、何にも(観客にも、カテゴリにも)おもねっていないからだろう。マテリアルとイメージの関係が、密やかさよりは風通しの良い、開放感のあるあり方をしている。


●画廊からの発言 新世代への視点2008 鈴木敦子展