金曜日の夕方は北千住con tempoに池田剛介×田幡浩一「fly」展を見に行ったのだけど、人が不在で会場には入れなかった。入口には不在時の電話番号と帰る時間が書かれたメモがあったけど、電話に出た不動産屋さんらしい人は鍵を持っていないらしく、時間が来ても誰も来なかった。会場はは元が商店なのか、道路に面したところが全面ショーウインドウ、というかガラス張りで、一応覗くだけは覗けた。長い時間、道端から会場をじろじろ眺めていたら、通りすがりの初老の男性が、私と同じように眺め始めて、けっこう地元の人も気にしているのかなと思った。あまりきちんとしたことは書けないけど、ショーウインドウに向かって右手の壁面の作品は比較的良く見えて印象的だった。


田幡浩一氏の作品は、壁に掛けられた、薄い小型液晶モニタに、手書きのドローイングによると思えるアニメーションが反復して流れている。ふるふると線のふるえる映像で、どこか子供が教科書や辞典のすみに書き付けたぱらぱらマンガの映像版、といった感覚がある。ウインドウに一番近い作品は、ほとんど真っ白い画面の右下に3本の黒い線が引かれていて、この震える線を見ていると、ふとその線が開いて色を持った蝶になる。つまり、その「線」は、3匹の蝶が羽を閉じているところを真上から見ていて、時折それらの蝶がかわるがわる羽を開くことがある、といった映像になっている。とても奇妙な気分を与える作品で、この奇妙さが田幡氏の作品の骨格を形成するのだろう。田幡氏の作品は先に芸大上野校舎で行われた「ヴィヴィッド・マテリアル」展でもみたのだけど、いずれも、ごくシンプルで多くは白地の多い(つまり「あまり描いていない」)アニメーションが形成する、差異(というか気持ちに生まれる段差の大きさ)が記憶に残るものだった。


今回の作品も、ほぼその形式は同じだ。ささやかな映像の反復によって、微細なインパクトがずーっと増幅され刷り込まれていく。奥村雄樹氏や田中功起氏の作品も連想させるのだけど、田幡氏の特質は、その映像が「手で描かれた」ものの集積であることにある。たとえば今回の「線」が「蝶」になる作品は、それが手で描かれた絵である、という条件がなければ成立しない。作品は上映時間のほとんどが、細かく震える「黒い線」の状態にある。それが線、正確には描かれた線を何枚か撮影して繰り返しているアニメーションである、ということが十分に見る者に「教育」された後に、まるで手品のように、その線が、鮮やかな色彩を持った蝶になる、このわずかな時間に経験される喜びと驚きは、何度でもこの作品を見てみたい気持ちにさせられる(描かれる線のもたらすイメージの、原初的な豊かさが開示される)。こういった驚きが、絵画ではなくアニメーション、という形式で示されるところに田幡氏の現在性がある。


池田剛介氏も田幡氏と並んで「ヴィヴィッド・マテリアル」展の延長にある作品を展示していたけれど、そのメタモルフォーゼのありようは、田幡氏よりもはっきりと大きい。基本的な構造、つまり透明で浅いアクリルのケースに、樹脂で成形したフラグメント(断片)を集積してゆき、そのことによって絵の具もキャンパスも用いないで絵画にコメンタリーしてゆく、といった姿勢は一貫している。前回「ヴィヴィッド・マテリアル」展ではこのフラグメントが木の葉だった。今回はそれがおおよそ蝶になっている(木の葉も混ざっている)が、そのことよりも重要な変化は、その色彩の操作の仕方にある。具体的に言えば、「ヴィヴィッド・マテリアル」展での出品作でアクリルケースに充填されていた木の葉はおおよそ着色が鮮やかかつ濃度の濃いもので、その集積のされ方も、過剰ではないかと思えるほど密度が高かった。過剰、と思えたには理由があって、端的に言えば透明度の高い樹脂が着色されしかも重なっていることで、透過する色が混色され、結果的に彩度が下がって見える箇所があったからだ。


ところが今回、蝶に変容した断片は、多くの部分で樹脂本来のままと思える透明な状態を保持しており、色彩が施されているのは縁などの一部に限られている。このことによって、「ヴィヴィッド・マテリアル」展時の問題点は解消された。もちろん、このような変化は単なる対症療法的なものに留まらない。透明な部分は、いわばマチスのキャンバスの白い部分に相当するだろう。このようなブランクとの相互作用によって、色彩の関係性がよりすっきりと明解になるわけだ。池田氏としては、もしかするとこの透明な部分は、セザンヌの書き残し、あるいはキャンバスの余白を参照しているのかもしれないが、少なくとも私が見る事のできた範囲では、樹脂のエッジの曲線を多く含んだ形態や色彩のまろやかさは、セザンヌよりも遥かにマチス的、と言えるだろう。また、これもショーウインドーに背を向けて飾られた大形の作品を正面から見ていない段階で言うのは拙速だが、比較的小型でスクエアのボックスに納められた作品の方に、フレームとの緊張関係がよりはっきり出ていたと思える。


基本的には各個に独自の問題意識を追っていることは確認できながら、しかし相互に緩やかな影響関係も見える、非常に洗練された二人展だったことは確かだろう(ことに、「fly」という展覧会タイトル名への各作品の“引っかけかた”は心憎いくらいで上手すぎ、もう少し野蛮でもいいのではないかと思わせるくらいだ)。ベストの状態で見たかった。展覧会は既に終了している。