昨日の晩、テレビで大西巨人の特集を放送していて、なんだかいつの間にか最後まで見てしまった。私は取り上げられていた「神聖喜劇」を1行も読んだことがない。紹介されていた粗筋だけ聞けばやや図式的な印象をもったのだけど、ニヒリズムに侵されていたインテリの青年が、不条理な軍隊組織の中で見せる“無責任の体系”への抵抗ポイントとして上げていたのが「論理」と「技術」であることには興味を持った。


国内の各階層から、まるでその人口比率に合わせたように招集された新兵への陸軍の教育は、無意味なまでに細かい規則と、その規則の隙間を充填する情念的な感情の押し付け合いの場であり、そういった場所で大学生(当時は特権的な身分だろう)であった主人公には、何のアドバンテージもない。ただ主人公は、そういった場所であるからこそ、インテリであるかどうかとは無縁の、個人の特異性を露にする。完璧なまでの記憶力。それに裏打ちされた論理性。隙を見つけては「インテリ」にルサンチマンをぶつけようとする教育係の上官に、主人公はこの記憶力と論理性=頭脳を持って対する。銃の部品名を間違いなく暗唱し、上官のしゃべった内容をまるでレコーダーのリプレイのように反復して見せる。知らされていなかった朝の集合時間に間に合わなかった事を問いつめられ、「忘れていました」と返事させられる同僚の中で一人青年は「知らなかった」と言い切る。事実は事実である。規則に「知らなかった」と言ってはいけないという規定はない。である以上、知らされていなかったのだから、知らなかったのだ。頭脳で対抗していた青年は、しかし、砲手であった上官の、身体的な技術には感嘆する。そして、自らもその技術の習得に没頭する。魅惑的な兵器の機構の理解と、その正確な操作の身体化。休み時間を押してオペレートの精度を上げて行く主人公は、全体訓練で的に砲を命中させる。


インテリであることで、軍隊で差別を受けようとしていた主人公が、その明晰さで生き残っていく、いわばサバイバルストーリーであるかのように紹介されていたのは、テレビ番組の限界なのだろうか(あのマンガを使った紹介が誤解を招き易かったと思う。せっかく朗読劇が悪くなかったのだから、あれで押せばよかったのではないか)。少なくとも、中で朗読されていた「神聖喜劇」の文、というか文体には、そういった図式には回収されない、一種の硬質さが宿っていた感触があるから、この番組の印象を持って、「神聖喜劇」についてどうこう言うのは無理がある。それを前提にして言えば、私にとって印象的だったのが、冒頭に書いたような、価値観の異なる上官と主人公を交差させた「論理」「技術」だったのだ。渦巻く情念の応酬の中で、青年がくっきりとその情念の流れから身を離しえた、その理由は、けして「知識」「教養」ではない。もし、そういった、大学という制度の中で知りうる、どこかに書かれている情報をひけらかしていれば、この青年は決定的に上官から憎しみを買い、また農民・漁民が多かった周囲からも理解されず(例えば青年は朝の集合時間を知らなかった、と主張する場面で1人だけ同調者を得る)、悲惨ないじめの中でただ自らの自意識にどすぐろくまみれていただろう。青年が展開した「論理」は、情報ではなくプログラムだ。情報は、あるいは知識は、知っているか知らないかの問題にすぎない。無論、戦前のような貧しい状況では、知っているか知らないかは大きな落差を形成するから知識型インテリには相応に存在意義があった。だが、その存在意義は、一度軍という、まったく独自の体系を持った場にいけば無用でしかない。しかし、「論理」は、物事の考え方・組立て方の道具であって、こういった道具は、場を相当程度選ばない。


大西が際立っているのは、旧帝国大学出身のインテリだからではない(もしそうなら、大西のような人物は何百人と出る)。大西の特異性は、その「論理性」にある。しかもその論理性は、大西という一個の人間の感情から独立した機械のように動いている。大西と同一視される「神聖喜劇」主人公に、無学な上官への軽蔑も同情もない。単に、彼の言うことに論理的に応対しているだけだ。「空気」を読んで、この論理を曲げたりすることは、大西においてはありえない。「空気」という、人間関係の中の粘着質な綱引きから、「論理」はすっぱりと切り離され、淀む「空気」をふっと吹き飛ばす。また、この論理性は砲術という身体の技術へとシンクロする。対馬の砲台にすえつけられた砲の照準を合わせ命中精度を上げる、というシステムに、主人公は埋没する。そして、正確な砲術は、同じ技術者である上官と主人公の青年に、共通の地盤を形成する。出身がなんであろうが、砲術は砲術なのだ。自分はこの戦争で犬のように死すべき、と思っていたニヒリストは、こういった、何者にもおもねらなくてよい、非-人間的な「論理」と「技術」によって、逆説的に人間として生き残ることになる。


この番組で示されていた、いわゆるヒューマンな部分に私はまったく興味がない。大西は、おそらくその中核においてヒューマニストではないし、俗にいう反戦主義者でもない。実際、上官を見る大西の視線は共感というよりは昆虫を観察する学者のそれだし、部落出身者の、リンチの場面での叫びを聞く耳は叙述的な興味(殺人を犯したものが生命について語る語り口への興味)でしかない。砲術、という戦争のシステムそれ自体に対しては、大西はその目的とは無関係に親和性を覚え、熱中し、熟達してゆくのだ。重要なのは透徹した機械性、人間的な温もりのない論理と技術の体系だ。そして、不思議なことに、大西のその冷えた砲のようなコアにこそ、言葉の本質的な意味での人間性が露出する。ここでの人間性とはヒューマニズムとは無縁だ。一般に、なにかカッコの良い作品を「アーティー」「アーティスティック」と言うが、もちろんこれは反対なので、真のアートは「アーティー」なところにありはしない。「アーティー」なムードを壊すものこそアートになりうる。そういう意味で、ヒューマンな所に人間性はないし、むしろ徹底的に反語的なところにのみ人間性は発揮される。大西が、結果的に「反戦」の立場に見えるのは、単にその論理性の帰結でしかない。大西が、その論理を積算してゆけば、旧陸軍は単に非論理的だし太平洋戦争も非論理的で、だから彼は単に「非論理的だ」と言っているにすぎない。


大西のアクチュアルな点は、政治的な情勢とか支持者を増やそうとか(俗情の結託?)、そういう事とはまったく無縁に、100%論理の積み重ねの結論として、旧太平洋戦争も9.11のテロもそれに引き続く戦闘行為も「間違っている」と言うところにある。軽蔑も共感もない。ただ間違っている。なぜアクチュアルなのかといえば、この論理は、かつての無学な上官と大西を交差させたように、立場や文脈や背景や利害を異にする、あらゆる他人と共通のプラットフォームを形成しうるところだろう。我々は、別に仲間になる必要はないし、友人になる必要も共感で結ばれる必要もない。単に論理的でありさえすれば良い。無論、これは見ようによっては究極の理想論に過ぎない。ただ、一見それらしく見えてまったくその享受者が特定できない「国益」主義者だとか、表面だけ論理的である様子を装った「現実主義者」だとか、仲間が欲しいだけの「ヒューマニスト」だとかの言う事よりは、私にはずっと刺激的なのだ。


神聖喜劇」の舞台が最前線でないことは一考する必要がある。そこはまだ、少なくとも前線の一歩後であり、いわば戦争の「準備」をしている場所となる。つまり、ここにはわずかに猶予がある-上官に論理で対してい間に、銃で撃たれてしまう場所ではないのだ。このことを、ある立場から「甘い」ということは簡単だろう。しかし、現在の状況において大西の問題意識がリアルなのは、まさにこの点にある。つまり、大西の「神聖喜劇」は、“前線の一歩後”にいる、“戦争の「準備」をしている場所”にいる人々に向けて書かれている。言うまでもなく、戦争はもう始まっている。その「後ろ」にいる人間が何をすべきなのか。たぶん、大西の言葉はそこに拠点がある。