・ふとした拍子で、なぜか漱石の「我輩は猫である」を読み出したら、面白くてずるずる読んでしまっている。別段古典故の深さだとか、流石漱石、と言いたくなるような複雑な何事かを発見している、とかいうのではまったくない。車屋の黒のふんぞり返ったはなしっぷりが変だったり、くだらないことばっかりやってはしゃいでいる美学者に軽く引いてしまったりしているだけのことで、半ばマンガを読むように読んでいる。


・マンガっぽいな、と思うのは、いかにも適当に短く書き流された感じの出だしから、どうやら人気が出たので続けることにする、というのを見せながら書き継がれていることで、もうこんなのは週刊マンガそのものの構成だ。加えて猫は、作中この作品外の人気を意識しながら、得意になって鼻高くして車屋の黒や三毛子と対面している。いきなりメタっぽい。東浩紀氏の言葉でいえば「環境」的な構成をしている。別段、ここで私は東氏の論に近いものが漱石に見られるのを見て漱石の先進性を指摘したり、逆に東氏の言う「ゲーム的リアリズム」の先進性に疑問を付したいのではない。要するに、いわゆる近代性へのズレから漱石がスタートしていることに改めて気づいただけだ。


・そういえば、クリスティの「アクロイド殺し」のトリックは、作中と作品外の境界のあやふやさを利用したものと言えるのかもしれない(以下、「アクロイド殺し」のトリックを推察させる文章が続きます。ご注意ください)。ここで読者は語り手の医師の記述を読み進めることで作中にアクセスする。一人称の文章は、それを読む人を、いわば作品に取込む。簡単にいえば、読者はどこかこの語り手の医師と自分を一致させ、重ね合わせながら読み進めることになる。当たり前だが、読者は作品の中で行われる殺人に関与していない。その読者が、一人称で作品を叙述する医師と距離ゼロになった時、半ば自動的に、この医師は作中の殺人に関与できない筈だと言う前提が構成される。もちろん、医師は一人称で作品外に作品を開示する「外寄り」の人間でありながら、その存在自体はあくまでミステリ小説の中のキャラクターの一人でもあるわけだ。この二重性というかあやふやさが利用されたのが「アクロイド殺し」だろう。


・「我輩は猫である」を通して読んだことのある人はかなり辛抱強い人で、各エピソードの断片はほとんど4コママンガの集積のようにランダムアクセスに向いている。高村薫の方がよっぽど「近代的」で、あれほどリニアに人間の心理が重層されていくお話も珍しい(新リア王、とかはこのへんの構造が壊れていて驚いたけど)。だから、たぶん、また私はこの何度目かの「我輩は猫である」へのアクセスを、通り一遍最後まで通して読むことはないんだろうなぁ、という気がしている。のだけど、そうなってくると逆に通して全部読んでやろう、と思ってしまう所もある。


・そういえば大西巨人の「神聖喜劇」も読んでいて(乱読なのだ)、これがベタに「喜劇」、つまりかなり通俗的な「ウケ狙い」の滑稽なエンターティメントであることに驚いた。私はてっきり、これはクソまじめな哲学的小説で、もう1行づつ唸りながら読むようなものだと思っていた(埴谷雄高の「死霊」みたいなイメージ)。ところが大西はたいへん分かり易く読者を「笑わそう」としていて、これが正直ちょっとサムい。笑いの感覚というのは凄く時代性に規定されるので、「笑わそう」とした作品というのは一般に風化が早い。ただ、それでも読み進められるのはその笑いのスパンが、一番重要なところで長いことで、それは地の文の文体の語り口、すなわち主人公のむやみに形式ばった、理屈めいた文章が軍隊の不条理を描写する様子は今でも十分に可笑しい。で、これは想像なのでけど、ここの「笑い」は、大西が「狙った」度合いが相対的に低いのではないだろうか、ということだ。つまり、あの文体の「可笑しさ」はかなりの程度大西本人の「可笑しさ」であって、だとすると笑いというのは結局天然ボケが最強、ということになるのだろうか。これも通して読んでみてからでないと判断できないかもしれない。


・その点、漱石の文章の滑稽さの緻密さというのはやっぱりちょっと流石で(ああ、結局漱石サスガ、と言ってしまった)、あれは十分「狙った」滑稽さなのにサムくない。もっとネタ的な美学者の描写は少しサムいのだけど。