少し前に前川國男の自邸を見て来た。本来建っていた場所から武蔵小金井江戸東京たてもの園に移築されたのだそうだ。私が感じたのは、目立つ中央吹き抜けの心地よさというよりはむしろ「狭さ」と「低さ」が生み出す関係のコントロールの緻密さだ。大きな切妻屋根をかぶったボリュームは、中央が高く、両サイドが低い。この高低差、ことに低い部分の細かな制御から生まれる空間のリズムを部屋の性格に割り付け、その連続を、回遊する中で継時的に見せている。


確かに最初に眼を奪われるのは、最も天井高のある中央の応接間兼リビングの大ボリュームで、南面の高い場所に格子状に嵌められたガラス窓から入る光は柔らかく、シンメトリーに作られ中央に丸い柱が建つ象徴性の高い造形は、太平洋戦争中の統制下に立てられたという与件にあきれるほど見事に応答している。ところが、こういった構造が仰々しいシンボリズムにならないで、すっきりと形式的な合理性をもって感じられるのが前川邸の面白いところだ。


実際、この中央の吹き抜けは、周囲を取り囲む小さく背の低い空間に基礎付けされている。切妻屋根による三角形の両翼は西側に書斎・トイレ・女中部屋、東側に寝室、浴場、キッチンと分割されている。これらの部屋は、簡単に言えば私邸の中でも最もプライベートな性格を持つ。対して中央吹き抜けは、リビングが半ば応接室であるように相対的に公共的な場所なのだ。このことは、単に家族の内部・外部の分割だけでなく、家族を構成する個人においても、リビングとそれ意外の場所でモードを切り替えさせることになる。たとえ外部の人がいなくても、この家のリビングにいる時は、家族という「社会」が意識されていくだろう。一方寝室であれば、その「家族」は「夫婦」というより閉じた、親密な状態になるわけだ。このとき、それぞれの空間にいる「人間」は同じでも、「関係」は異なる。


つまり前川國男の自邸は、その狭かったり大きかったり=天上が低かったり高かったりする各空間を巡る中で、その部屋ごとに、この家の中にいる人々の関係性が操作されているように感じる。例えば、一時は前川事務所として機能していたという書斎は、確かに狭く内的思考に向かうようでありながら、むしろその狭さが複数のスタッフの共同性を高めるようなイメージが持てる。似たような性格は東西反対の場所にある寝室にも感じられるが、ここでの「共同性の親密さ」はやはり仕事場に漂うものとは異なる。細かく作り付けられた押し入れの棚の、こまごましいグリッドは密やかな所作を想像させる。そして、そういった微妙に閉じたり開いたりする部屋を回りながら通過するリビングが、相互の部屋の位置づけの中にきちんと収まって見える。


この中央の大ボリュームにおいても「低さ」「狭さ」のコントロールは丁寧にされている。リビング北側には空間の半分まで張り出した2階があるので、北側だけ天井が低い。ここは両翼の「狭い」空間を行き来する通路であり、このリビングを通過しても、やや閉じた関係性は大きな影響を受けず維持されたままでいられる。かつ、この低い天井の下には食卓がある。キッチンに面した壁には小さな渡し戸が開けられ、そこから出し入れされる食事を囲む時間は、解放されたリビングとも、私室とも異なる、緩やかな開放性と閉鎖性のバランスが保たれた時空を形成するだろう。


こうして見て行けば、初めに眼を奪う中央吹き抜けは、意外なくらいこの家の中で限定的な位相を持った空間として位置づけられている。前川邸が過剰にシンボリックに見えず軽快な音楽性を持って見えるのは、このような整理され考え抜かれた空間の操作が洗練されて実現されているからだ。こういった「低さ」のリズムは、戦後の前川建築により大規模に実現されていくだろう。北側の敷地入口からの屈折した通路の有り様も既に十分前川的だ。この建築の混濁のないコンセプトは、隣り合って建つ建物園の他の住居と比べることでより際立つ(もっとも、迷路的な部屋割りの小出邸や大川邸、常磐台写真場の魅力は、そういった観点とは異なった水準にあるのだと思うけど)。


この建物を私は「困難な時代に近代建築を実現した」と見てしまいそうになったが間違いだった。自邸に切妻屋根を持ち寺社建築のような丸柱を使いながら見事にモダンな空間を組立てた所に、前川なりの「近代の超克」の意志を見る方が自然だ。当たり前だが前川も時代の人だったし、そのことに自覚的だったのは前川の建築を見て行く時外してはいけないポイントのように思う。


あと、明らかに蛇足だけど、この家の女中部屋が閉じられているのが腑に落ちない。女中さんを雇うというのは江藤淳が言う山の手文化=中流文化(戦後中流階級とは根本的に異なる文化圏)においては当然だっただろうと思うのだけど、別に隠すつもりもなくて何か現実的な理由があるのだろうか。そうだとしても、閉じてしまっただけで、なんとなく「勘ぐり」を招いてしまうのではないか。こんなことを考える方がおかしいのだろうか。