東京都美術館フェルメール展が充実していた。フェルメールは国内ではなかなか複数の作品を並列して見る事が難しいけど、この展覧会には7点出品されている。作品間のつながりや差異が確認でき、相互の比較が可能だ。こんな機会は2000年の大阪市立美術館フェルメールとその時代」展で5点のフェルメールを一気に展観して以来のことになる。いったいどんな混雑なのだろうと不安だったが、金曜日の夜間開館に訪れた会場は比較的コンディションもよかった(待ち時間0、という表示が上野公園内にあった)。


私は大阪で初期のフェルメールとされる「聖プラクセディス」を見て酷い、と思った。けれど今回来日している2点の初期作は、いわゆるフェルメールのスタイルではないものの絵として良いものでこれならば納得できる。私はフェルメールの最も重要なところは、様々な解釈や分析を呼び込む構図の複雑さというより絵の具の質にあると感じるが(参考:id:eyck:20040721及びid:eyck:20050921)、ここでの「質」が何か、と言われれば、それは中間調子の意外な狭さが作り上げる光の感覚、つまり暗い箇所も潰さず明るさを回り込ませて「暗い光」があるように見せる絵の具の操作だ。これに似た感覚が、初期の宗教画とされる「マルタとマリアの家のキリスト」の、3人の人物の影の部分に感じられる。それでもこの影の部分の扱いは例えば2004年に「画家のアトリエ」展で見られた「絵画芸術」における粒子的な絵の具の微分ではなく、筆のタッチの的確さによって実現されていて、ある意味「上手い絵」でしかない、とは言える。


また、絵の具とは別にフェルメールの特徴として作品のサイズの厳密さがある。絵画が、絵の内実と見合った大きさを持つのは難しい。画家の力量を見る時、手先の技術よりもむしろ重要なのが「作品サイズの形成力」だったりする。今回の展示の面白いところは会場の一角に複製パネルでフェルメールの真筆とされる全作品を原寸大で並べているコーナーなのだけど、これを見ても、最もスタイルが一貫し高い水準で維持されていた作品群で、そのサイズにバリエーションがあることがわかる。


フェルメールは、例えば「絵画芸術」ではその色彩設計やモチーフとなる空間のボリューム、構造の複雑さを含めた内実に見合ったかなり大型のキャンバス(120×100cm)を制作し、近い時期に描かれたとされる「真珠の耳飾の少女」では小型のキャンバスを設定している(44.5×39cm)。このサイズが個々にきっちりと決まっているところに、フェルメールの実力が見られる。宗教性の有無とか寓意性の強弱とか、注文の内容とか当時の慣行とか、そういう事柄で作品の大きさが計れる、というのはちょっと片手落ちというか「個別の作品」に向き合わない態度で、フレームに対する姿勢というのは絵というものに、一回限りの問題として常に立ち現れてくるものだ。


「マルタとマリアの家のキリスト」はフレーム意識が甘い。これが今回同じ部屋に展示されている「小路」になると不連続なまでにフレーム意識が厳密になっている。室内画ではないこの「小路」が、それでもまぎれもなくフェルメール的だと思えるのはこのフレームの感覚にある。誤解されそうだが小さければ良い、というものではないのは今回真筆として出品されている「ヴァージナルの前に座る若い女」がまったくの駄作であることから分かる。この作品の稚拙さはフレームとタッチの関係性も含めての話だ。


フェルメールくらい精密になってくると、精度の微妙なブレまで感知できて、そういうのが分かるところが今回のような複数作品の並列の面白さだ。例えば、今回の展示では「リュート調弦する女」と「ワイングラスを持つ娘」、「手紙を書く婦人と召使」が同じ部屋にある。大阪に続いて再見できた「リュート調弦する女」は素晴らしい。今回見る事のできたフェルメールの中でも抜けている。隣の「ワイングラスを持つ娘」も良い作品で、構図の複雑さは見ようによっては「リュート調弦する女」より入り組んでいるかもしれない。また、この作品の半調子の奇妙さはいろいろと考えさせられるもので、思考の対象とするには適切なのかもしれない。しかし、「リュート調弦する女」の、ぱっと一目見て凄い、と思わさせるところはそのフレームの、まったく揺るがせにできない緊迫感にある。「ワイングラスを持つ娘」が面白い絵であるにもかかわらず、今一歩、とつい感じてしまうのは、すこしだけそのフレームが緩く(大きく)感じるためだろう。


「手紙を書く婦人と召使」は、その絵の具の扱いにおいて、私は「リュート調弦する女」とも「ワイングラスを持つ娘」とも異なる感覚を持つ。私が上に描いた影の部分の扱いが少しだけ良くない、と思えるのだ。この作品は暗い部分が潰されている(暗い所には光が回り込んでいない/光子がない)。単純なコントラストの強さでいえば「リュート調弦する女」より強いのだけど、それが絵としての弱さにつながっている。


フェルメール