美術のさいたま/政策のさいたま

経済の状況に対する、政治、あるいは金融の政策が面白い。いや、面白い、と言っていいのかわからないのだけど、ここには何か深い「さいたま」性がある。ちなみに、私がここで言っている「さいたま」性というのは、地理的ローカリティにとどまらない。ある種の精神の有り様のことなのだけど、日銀や内閣が繰り出す経済の政策には、このような意味での「さいたま性」が濃厚だと思うのだ。

日銀、0.2%の利下げを決定

首相、消費税上げ明言


一見、政策的な「手」を打っているように見えて、その実「何も打っていない」ということが理解されるだろうか。そして、この「何も手を打たない」という姿勢は、半ば積極的な、強い意志の現れなのだ-つまり、実質的になにも変化させない為にこそ、政府や日銀は、タイミングを見計らい慎重に「手を打っている」。何もしないために、何かをするのだ。


日銀が先の欧米の中央銀行の協調利下げの場面で、1行だけ金利を据え置いたことは記憶に新しい。もちろん、これは一見何もしなかったかにみえて、ある一定のエフェクトを生んでしまった。素人にも分かることだが、皆が利下げをした中で自分だけ金利を維持したのであれば、相対的に日本の金利は上がったことになる。現状の、極端な円高は別に日本が優秀だからでもなんでもなくて、ごく単純な「利上げ効果」だ。リテラルに「何もしなかった」結果、「何かしてしまった」かのような状況が現れた。そこで追随して利下げしたことで、「旧状維持」を狙ったのが今回の利下げということになるだろう。


日銀は、もうずいぶん長い事「何もしない」ことを続けている。そして、ここがポイントなのだが、この「何もしない」ことが、日本の現状の相対的な有利さに繋がっているのだ。山形浩生氏が訳したクルーグマン論文はずいぶん前に書かれたものだが(参考:http://cruel.org/krugman/japtrapj.html)、ここでのクルーグマンの指摘は興味深い。バブル崩壊後の不況にあえいでいた日本に対するアドバイスをしているのだけど、さんざん語ったあげく挙げている「次善の策」は、「何もしないこと」だった。理由は簡単で、状況がイレギュラーで一時的なものだから、この「一時」の間何もしなければ、勝手に事態は好転するよ、という話だ。事実、日本は「何もしなかった」。そして戦後最長のプラス成長を最近まで続けていたのだ(そのプラス分に合わせるように、日銀はちょっとだけ利上げした)。


この「何もしない」を、まんま維持したのが先の協調利下げに対する単独金利維持だったわけだが、これが相対的な「利上げ」につながり円を高騰させたのは前述の通りだ。そこで、と言っていいか危ういが、結果的に「前と同じ」にするように金利を下げたのが今回の決定と見ていい。0.25、ではなく0.2、とした所に総裁のパーソナルな指向性が見え隠れするが、とにかく、日銀は、相変わらず頑固なまでに「何もしない」という姿勢を保持し続けている。最低であるよりは次善であろうとする強い意志。


そこまで固着したコンプレックスとは言えないが、総理大臣の消費税上げ明言は、進行している経済対策とセットで考えるとなかなか味わい深い。ごく簡単なことである。今減税します。そしてその財源として将来増税します。この政策を見て、消費を拡大する国民はそうはいない。今日減税されて明日増税されるなら、誰も減税分を使わないで増税時に備えて保持しておくのがごく自然な発想だ。給付方式の生活支援定額給付金がクーポン券ならその分現金を維持しておく。完璧なプラスマイナス零の政策である。住宅ローン減税の拡大と延長にしたって、それほど話は変わらない。買う予定の人は駆け込むだろうが、その人は遅かれ早かれ買ってしまうのだから、これまたプラスマイナス零。「諦めていた人」が買う気になる政策とは言えない。


今の日本には積極的なものがない。しかも、今までそれで上手くいってしまっている。この「さいたま」性への、奇妙な固執。これを政策の問題だけだ、美術には関係ない、と言い切れる人がいたら、その人は幸いではある。「東京」たるアメリカはどうだろう?もちろん失敗していて、「東京」の輝きを失っている。しかし、今のブッシュのやっていることは本当にチンパンジー並みなのだろうか?彼の知性は別として、アメリカ全体が取っている危機への対応は驚くほど早い。少なくともバブル崩壊後の、信じられないような「何もしない」日本の対応とは雲泥の差だ。別に私はこれをもってアメリカを賞賛したいのではない。実際アメリカは失敗している。ただ、アメリカはやはりアメリカである-「さいたま」ではない「東京」なのだ、ということが確認できると言いたいのだ。


もし、本当にアメリカが「さいたま」化する、すなわちいつか来たようなブロック化を進行させた時こそ、日本は、この愚鈍で安定した「さいたま」であることを変化させられるかもしれない。最悪の形態で。最悪というのは、もちろん「戦争」の事なのだけど、それがグルジアウルグアイといった遠い所でしか起きない、という保障はあるのだろうか。いや、遠くの出来事であっても、それが「遠く」ない、ということが、9.11以降の貴重な教訓だったはずだ。