土曜日は日光がとてもきれいで、うちのアパートの周囲の緑は黄色がかって輝いていた。こういう日に、川村記念美術館にモーリス・ルイス展を見に行く、という思いつきができた自分は幸せだと思う。佐倉についた時刻は午後3時で、もう太陽が低くなり始め黄色味はより濃厚になっていて、送迎バスの最前列に座って正面のフロントガラスから見る千葉の広い畑は、どきどきするようなコントラストだった。川村記念美術館は5月に「マティスとボナール」を見に来たのだけど、その時驚いたのがこの美術館の増床による常設展示の充実で、今日はこの常設展示について書いておく。


もともとこの美術館は所蔵品が見応えあったのだけど、それだけに十全に空間が確保されていたとは言えない感はあった。遠くに住んでいて企画展の時にしか行く機会がなかった私のような人間に、それはより強く感じられたのかもしれない。昨年までかけて行われた建物の増床は、この難点を十分に解決してくれた。インパクトがあったのは新設された「ニューマン・ルーム」で、バーネット・ニューマン「アンナの光」1点のためだけに設定された展示室はおおよそ完璧だ。暗くされた(シュールレアリスムの部屋から続く、廊下突き当たりの高い場所に設定された、敷地の雑木林を見せる窓の効果)狭い階段を上がると、ロスコルーム(現在閉鎖)を過ぎて見上げる所に四角い開口があり、そこにちょうど赤い色面がはまりこんでいる(サンマルコ寺院のフラ・アンジェリコ「受胎告知」を想起する)。その、純粋な色のトリミングにはっとしながらニューマン・ルームに入っていくと、左右が丸く外に向かってガラス窓で開かれた空間に「アンナの光」が1点だけどーん、と置いてあり、その巨大な赤に視覚が占拠されてしまう。


白い部屋は作品にハックされた目で見るとほぼ補色に染まって見える。展示の完成度でいえば、私が知ってる範囲では、国内では直島・地中美術館のモネの部屋に次ぐものになるだろう(参考:id:eyck:20060726)。ブラインドで拡散された自然光が部屋全体を埋める感覚、角を作らない設計と、その基礎的な方法論は地中美術館と共通している(そして、その先にはオランジェリーのモネの睡蓮の部屋がある)。直島の時も書いたことだけれども、私はこのような、絵画の視覚性だけを強化してゆく展示の精密化に違和感がある。なぜ、こんなにも親切に作品の展示効果を高めてしまう必要があるのか。愛煙家に無理矢理高品質のマリファナを吸わせるような暴力を感じる。作品を、絵画を見ることはある種の不純さの中で獲得されるのが本来の形態で、しかもその不純さの中にこそ作品の「複雑さ」がある。こういったものを取捨してしまう展示は、半ば作品のねじ曲げだとすら思う(そこが「解釈」であり「批評」だ、と美術館は言うのだろうけど)。「アンナの光」に関していえば、例えば色面の左右に残された地との関係、そしてその色の境界の微妙な曲がりや手跡のぶれといったものが、この展示だと後退してしまう。こういったところにこそ、この作品が単なる「赤い色面」ではなく「作品」である根拠があるのに。


美術作品は、観客が自分の足(身体)を引きずって、自分の知覚をひきずって、自分の能力をひきずって、自分で接触するものではないだろうか。というか、そういう所にこそ作品を見るエクササイズの快楽があるのであって、ノイズを除去し作品のエフェクトだけを環境的に高度に抽出してしまうような展示は間違っている。地中美術館のモネに比べて、ニューマン・ルームの「アンナの光」は、作品の複雑さというか組成が若干単純で、なまじっか展示室が完璧なため「作品の弱さ」(視覚効果の強さばかり目立つ、という弱さ)が見えてしまうようなところすらある。モネに関していえばオランジェリーを自分で構想していたことと作品の質も考え合わせ、自業自得(?)なところもあると思うけど、この川村記念美術館のニューマンは、ちょっとかわいそうだ。前にも書いたが、美術館は原則として、作品を観客が勝手に見ることができる環境を細心に整えるべきで、選びようのない見方/見え方を押し付けるのは了解できない。とはいえ、ここまでの展示をする苦労は並大抵ではないことは確かで、設計者と美術館の、今回の増床にかけている「本気」が一番発揮されているのは間違いない(そして、そういう所に文句をつける方がバカなのではあるのだろう)。見ておいて損はない。


ニューマンについて過剰に書きすぎたが、他にも見所はたくさんある。マティスの小品「肘掛椅子の裸婦」がやっぱり面白いのは、このラフな作品が、ラフなままにいろんなことを小さな画面の中にばんばん突っ込んでいて、しかもそれが楽しげに見えることで、例えば中央の人物の塗りにぶつけられる背後のテーブルのストライプとか、裸婦を挟むような椅子の水玉模様とか、画面向かって左上の、こちゃこちゃとした隣の部屋の空間の書き込みとか、床の垂直に立ち上がるような赤と黄色の模様とか、とにかく画面を単一にだけは組織すまい、という「マティス性」がはっきりと分かる。これがどのくらい難しいかといえば、モホイ=ナジの「スペース・モデュレーター」が、確かに一つの画面でいろんなことをやりながら、しかしそれがあんまり上手くいっていないことに見て取れる。モホイ=ナジの問題意識とマティスを並べることは明らかに不当だけど、でもこうやって「並んじゃう」ところに美術館の不条理さ(そして面白さ)がある。


ブランクーシの「眠れるミューズ II」は、今見ても十分鮮烈だ。この単純化された頭部がごろっと置かれる事の、ぞくぞくするような切断感覚は、当時も今もかわらないのではないか。この作品の凄みは「首」がないことろにあると思う。人間の頭部を極めて唯物的に、まったく「内部」を感じさせる事なく提出させる彫刻といえばブリジストン美術館ロダン「目覚め」があるけど(参考:id:eyck:20060605)、十分切り詰められていたロダンから、さらにブランクーシが切り詰めたのが「首」だと思う。首の存在があることで、ロダンの頭部は確かに人体を想起させるし、いわばそこに想像上の人間が、亡霊みたいに感じられる(そしてそれを切り取ってしまったロダンの怖さが発生する)のだけど、ブランクーシの首の排除は、そういったイリュージョンすら成り立たせない。


他にもレンブラントとかステラとか、いくらでも書きたい作家がいるのだけど書ききれない(気が向いたらまた書くかも)。とにかく常設だけで十分刺激になる美術館に生まれ変わったのは間違いない。テート・モダンに貸し出されたロスコが見られないのは恨みだけど、そのぶん来年の「マーク・ロスコ」展が楽しみになる。私はいっつも午後の遅めにしか出向けなくて(事前に計画的に美術館に行くことをなかなかしないので)、庭を歩いたことがないのだけど、一度くらいはあの庭を歩いてみたいなと思っている。