川村記念美術館で見ることができたモーリス・ルイス「アンビII」について。1959年に描かれている。縦248.9cm、横360.7cmの大きさがある。キャンバスにアクリルで描かれている。画面の上から下に向けてステイン(染み込み)された赤褐色、あるいは茶色の絵の具が紡錘形に垂れ下がる。左右の中心より向かってやや右でその長さが長く、画面両端では短い。さらにその上から青、紫、黄土色、緑といった色彩が若干短く画面1/2まで画面内側に曲がる曲線を描いて重ねられる。この色彩の帯に真下から対立するようにわずかに色味(青?)のついた黒が、やはり内側にむけてやや曲がりながら、ずっと細い幅で立ち上がっている。中央ではこの黒と色彩の帯は重なるが、画面両端では地の白が見えている。


この作品では画面が大きく5層にわけて組織されている。まずキャンバス(綿布)の地の層、続いて画面中央に上から下にほぼ垂直に流れ長さの最もある褐色の層、続いてやや内側に向かって巻くように流れる赤、赤褐色、茶色の画面半分程度まで伸びる層、さらに短い、緑や青、紫、黄土色といった層、更に下から上に伸びる黒い層だ。この層は、主にその色相の差と帯の曲がりかた、太さ、画布に染み込む時の輪郭のぼやけかたの強弱などによって積層構造を露にする。この積層構造(おおよそ記述順に、背後から手前に向けて地の白、垂直の褐色層、曲がる赤、赤褐色、茶色の層、短い緑や青、紫、黄土色の層、黒の層、という順番)は、画面内に見かけ上の奥行きのイリュージョンを作る。ただし、オールオーバーに絵の具が画面を覆ってはいないため、いわゆる抽象表現主義における深奥空間とは異なる。


「アンビII」の異様さは、黒い絵の具層の唐突さにある。ルイスは1958年頃から綿布にアクリル絵の具を薄く溶き、何重にも重ねた「ヴェール」と呼ばれるシリーズを制作しているが、この「アンビII」は、ヴェールのシリーズから、大きな余白を残した画面の両端にはっきりした色彩の帯を描く「アンフィールド」への移行期に描かれたと位置づけられている。しかし今回展観された作品の中ではこのような大胆な形での黒の使用は見られない。ルイスの多数残された作品にはもちろんこいういった強い黒の存在がないわけではないが、「アンビII」の黒は、事実上一切他の色彩と協調することなく関係を断っていて、半ば画面を潰そうとしている印象なのだ。見ようによっては事故があって黒の絵の具がルイスのアトリエにあふれ作品が浸食されてしまったかのような印象すら与える。だが同時に、その明らかに上から下がる色彩の帯に対立するように下から伸びる黒は、はっきりとした画家の意志を示す。


ルイスの「ヴェール」のシリーズ、例えば1958年の「ダレット・シン」は、薄い絵の具が何層も重ねられた結果、画面の大部分は彩度のほとんどない暗い色面に覆われる。かろうじて、その重なった色面の端に、わずかに鮮やかな色彩が、ちらりちらりと覗く。この効果が、いわば無数に混じり合った低彩度の大画面に、潜在的な色彩の存在を暗示させることになる。いわば想像上の色彩が、混濁した色面の背後に埋め込まれているような感覚を与えるのだ。実際には存在しない色彩は、イメージとして見る者の脳内にだけ想起される形で与えられる。無彩色のぶれた輪郭が示され、そこからはみ出した色彩が、光の波長を逆説的に増幅してゆく。「よく見えない」ことが、過剰な色彩の強化に連結される。ブライス・マーデンの、重ねられた色彩の下部に意図的に鮮やかな絵の具層が露出しているように。


後の「アンフィールド」あるいは「ストライプ」において、ルイスがこのような「色彩の暗示による増幅」から脱却していることは、ルイス自身が「想像的色彩」に満足していなかったことを類推させる。色彩は、隠れなく、象徴的にではなくマテリアルとして顕現すべきと考えたことは疑いえない。「アンビII」に戻れば、色彩のベールは、色彩、濃度、カーブの屈折率、長さといった各要素を切り分けられ、混濁せず彩度を維持するようレイヤー相互に分節されている。混ざり合い微妙に振動していた「ヴェール」の色彩が遠心的に分離されているのが「アンビII」なのだと見えてくる。しかし、そのような合理的思考であれば、色彩が混濁した結果現れていた無彩色を、このように対立的に、積極的に導入する必要はない。ここでの黒は、色彩としての黒ではなく半ば反-色彩としての黒であり、色という存在そのものへの批判的(破壊的)存在となっている。


このような不可解な黒を、単にスタイル移行期の試行錯誤の一環としてみることは、いわば「ルイス的体系」に収まらないものの排除になるだろう。むしろ、「アンビII」のような和音破壊と分裂の場所からモーリス・ルイスという画家は把握されるべきであるように感じられる。モーリス・ルイスにとって色彩は調和的ではないし、画面は全体性に穏やかに包括されるものではない。あらゆる混濁から振り切るように飛び出すものであり、飛び出したものは相互に侵略することで自らの位置を闘争的に確定してゆく。このような視点からみれば、モーリス・ルイスのアトリエが、その作品サイズから考えられないほど小さいことには必然性が見えてくる。つまり、ルイスにとって作品とは「収まる」ものではなく「溢れる」ものだったのであり、色彩とは協調するものではなく侵略し合うものだったのではないか、ということだ。ルイスからはなにもかもが溢れている。絵の具も、画布も、色彩も、調和/不調和という観念すら溢れている。


このような「溢れ」は、ルイスにとって一種の「恥ずかしさ」に繋がっていたかもしれない。彼の、妻には一切作品を見せず、働きに出ていた妻が帰宅するまでには完全に仕事を片付けていた、というエピソードは、「妻にすら」というよりは「妻だからこそ」と思わせる。無名のルイスが、それでもささやかに生前展示を行っていたということは、彼は作品を人に見せることは忌諱していない。「妻に」見せることを忌諱していたのだ。この密やかさには独自の強迫すら感じさせるが、そのような、どこか不穏なあやうさが、「アンビII」の黒には露出している。


●モーリス・ルイス 秘密の色層