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川村記念美術館の今回のモーリス・ルイス展は、全体に素晴らしい。多くが国内の(もちろん川村記念美術館所蔵のものも含む)コレクションであり、作品点数も15点と、決して大量にルイスの作品が見られる訳ではないのだけど、三つの主要なスタイル〈ヴェール〉〈アンファールド〉〈ストライプ〉のバランスが良く、しかも各作品の質が高い。国内に、これだけ粒のそろったモーリス・ルイスが点在していることに気づかされるとは思わなかった。
私が今回一番ショックを受けた(こんな作品がルイスにあるとは思わなかった)“移行期”の「アンビII」はワシントン・ナショナル・ギャラリーのものだが、しかし、なんといってもモーリス・ルイスの作品の持つ「良い感じ」を味わえるのは〈ヴェール〉のシリーズで、会場に置かれた椅子に座って群馬県立近代美術館の「ダレット・サフ」をじっとみていると、その重ねられ混濁した褐色(?)の層の周囲にはみ出た、プリズムで分光されたような鮮やかな色が、視覚の周囲からなぜか中心部に侵入してきて、一見穏やかな作品が以外にチカチカとオプティカルにちらついて見える。もちろん川村の「ギメル」、富山県立近代美術館の「ダレット・シン」、静岡県立美術館の「ベス・アイン」もとても良い。滋賀県立近代美術館の「ダレット・ぺー」に散らされた黄色が少し気になったのだけど、意図的に彩度の落ちたところにこのような操作をする、というのは、やっぱりルイスは重なった部分の彩度の低下を気にしていたんじゃないかとおもう。
画布を固定していた木枠の部分に絵の具が滞留して独特の構成を見せるのだれど、これが「金色と緑色」とかになると消えてしまう、というのは、やはりこの滞留部分も意図的なのだろうと想像される。ルイスというのは図版で見るともしかして、ステインされた絵の具の独特のフォルムが目立つから「イメージ」の人、と見られるかもしれないのだけど、実物を、しかも並べてみればこれはもう圧倒的に唯物的な画家なんだということが了解される(その色彩も、あくまで染み込む絵の具というモノの操作から析出される、唯物的色彩だ)。
「いいなぁ」という感覚とは別に、創作意欲を刺激されるというか、自分もやっぱり絵を描きたい、と思わせられたのは実は後半の〈ストライプ〉のシリーズだ。作品が小さくなって展示効果のインパクトが落ち、「良い感じ」の絵ではなくなるから、あまりこのシリーズのファンは多くないのだろうけど、そのぶんモーリス・ルイスにとっての最大の目的が「良い感じの絵を作る」ことではなく、いわば技法とマテリアルの織り目をたどってゆくような、あくまで「描く事で考える」プロセスにあったことが確認出来て、うわーやっぱり絵描きってこうでなくっちゃいけないよな、と勇気をもらえる。もちろん、この〈ストライプ〉のシリーズのフォーマットが細長く、自分が最近描いていたフォーマットとぱっと見似ている、という親近感もあるのだけど。とはいえ、このような色彩のヴァイブレーションに満ちた作品は今の僕には縁遠くはある。
あと、なんといってもモーリス・ルイスの自宅のアトリエの広さを再現した空間は衝撃的で、アメリカの作家だから当然巨大なスペースで製作していたと思っていた私は、ある種の感動を覚えた。本当なら感動、ではすまない「謎」というべきで、実際カタログを読むと多くの人の研究対象になっているのだけど、日本の実作者があれを見たら、ごくシンプルな、しかし根深い感動を覚えざるをえないのではないか。昨日のエントリでも「溢れ」というキーワードで少し触れたけど、そこには「厳しい条件でがんばった」という話とは異質な何事かがあったとは思う。だけどぐっと来る。
ロバート・ライマンをやって、「マティスとボナール」を挟んでモーリス・ルイスをやって、来年はマーク・ロスコをやる、という川村記念美術館はむちゃくちゃコアな美術館ではあるのだけど、同時にセンスや趣味の良さも感じさせる、ノーブルな美術館ではなかろうか。丁寧な仕事を情熱的に(情熱がなきゃこんなこと出来ないでしょう)やりながら、過剰にガチガチしていない。そういう印象を与えるのは、ひとえに作品の選択がとてもレベルが高いのだとおもう。「マティスとボナール」というコンセプトもよかったけれど、あそこで集められた作品の水準と相互の照り映えの良さは記憶に新しい。
カタログも、ロバート・ライマンの時にあまりにしゃれていて「かっこいいなぁ」と思わせられたが、今回も、作品のことをじっくり考えた作りであることは一目瞭然だ。横長のフォーマットと薄い造本は明らかにモーリス・ルイスの作品と呼応している。学芸員ならば、ここは思い切り自分の研究論文をどーん、と載せたいものなのでは、と想像するのだけど、ジョー・クルック/トム・ライナーの簡潔なエッセーをさり気なく載せるだけ。つくづく上品だ。とにかく気になる人は必ず足を運ばないと後悔すると思う。