・子供が生まれて1年が経って、最近ようやく歩き出しそうな気配がかんじられつつも、なかなか一歩を踏み出さない。ここは一つ、ちょっと目新しい刺激のある場所に連れて行ってみよう、といった動機であらかわ遊園というところに行ってみたりもした。


・もっとも、お世話をする方としては歩かれるのはなかなか面倒、みたいな意識もあるので、「歩かせたい」ということではなかった。どっちかといえば、四つ足の生き物にこの小さな人を引き合わせてその反応が見てみたい、という好奇心が大きかった。あらかわ遊園には、とても小さな動物園があって、そこに「ふれあい広場」みたいなものがあるのだ。


・オチとしては、まだハイハイの方が遥かに楽しい子供が一番楽しんだのは芝生広場(といっても芝生などなく、斜面の一部に雑草が生えているだけの空き地)を枯れ葉だらけになって這いずり回る事で、やぎや羊、ウサギ、モルモットなどに触れる場所では親に羽交い締めされた中で大人しい(少しアワレな)動物の毛皮をむんず、と掴みそうになっては制止されるだけだった。これなら近所の公園でよかったのではないかという流れで、親が子に何か期待してコトを目論むと必ず外れる、という先人の教えを再確認したにとどまった。


・帰宅して一晩したら寒い中苦労して外出した報いか母体が発熱して寝込むというおまけがついて、晴れがましい長男1歳の写真館での記念撮影も延期となった。まぁこんなもんでしょう。祝われるべきご当人はイオンレイクタウンで買ってもらったタンバリンと木琴が気に入ったらしく、きゃっきゃと日がな一日遊んでいる。


・言葉の萌芽のようなものをよくしゃべる。だーだー、とか、まんまんま、とか、ばっば、といった意味をなさない音でしかないけれど、おおよその意志伝達という機能は十分に果たしている。顔と仕草が加われば、それが与えられている状況に対して肯定的なのか否定的なのかは理解できるし、こういうのを見ていると言葉というのはコミュニケーションにおいてあくまで部分的な位置なのかな、とも思う。


・あるいは逆の見方も可能かもしれない。つい数ヶ月前まで、コントロールも出来ずにただ振り回していた四肢を使って、彼はおそろしく豊かに自らの気分や感覚を「表現」している。いわば身体全体が分節され連結され構造化されて、全身が言語化されたのだ。目配せひとつで要求を伝え、わずかな指の仕草で快/不快を読み取らせる。もちろん、読み取るこちらの身体にもパフォーマティブな言語機能があって、それを相互でキャッチボールして再帰的な訓練がされているわけだ。私たちは、髪の毛の先まで象徴化されている。これが「衰える」ということは原理的にありえない。


・色は鮮やかな色彩を好むようになった。母体が自分の趣味で白い生地をいかした「にぎにぎ」を自作していたのだが、これがまったく無視されていて笑える。最近は上品な無彩色の木のおもちゃなどもあって、親としてはそういうものを与えたくなるのだけど、やはり子供の目に刺激になるものというのははっきりある。ここでも子供の「分節化」「構造化」は見てとれる。


・生後一ヶ月くらいの子供は、自分の目の前を横切る自分の手を「自分の手」として認識できない。視力はあっても、入ってくる光刺激を分節化できない、というより音や触覚や味覚といった知覚全てが分節できないから、本当に漠然とした、絶え間なくやってくる知覚信号のもやの中に浮いているような状況らしい。そういう状況から、なにかのきっかけで「光」と「音」が別のものだと認識して、さらにある波長の光と、別の波長の光が「別の色」であることを認識する。こういった認識の象徴化があって、初めて人は色彩を認識するのだろう(ここで感じるのは、象徴化を経たあとでなければ「それ以前」への遡行はありえない、ということだ)。


・それにしても母体はおもちゃを次から次へと自作する。といってもなんら凝ったものでも美麗なものでもなくて、ペットボトルに色とりどりのボタンをいれてがらがら鳴らせるものとか、縄跳びのビニールの縄をちょん切って振り回せるようにしただけとか(細いひも状のものを子供が好むのを見て思いついたようだ)、牛乳パックを立方体に加工して中に鈴を入れたりとか。


・子供をよく観察して、彼がその時々で興味を示しそうなものを察知して、そのへんにあるものを適当にアレンジして、ぽいっと与えて放っておく(別に「遊び方」を指示したりしない)その様子は感心する。彼女は学生時代から課題の住宅模型とか芝居小屋とか、社会に出てからは企業内デザイナーとしての仕事とか趣味のフェルトバックとか、まぁ延々何か「作って」来た人ではあるのだけど、私の目から見て最もクリエイティブだとおもえるのがここ1年の子供のおもちゃのラフな工作で、そのいかなる意味でも作品性のない、単純に子供に放り投げっぱなすだけの仕事が、やたらめったらアーティーにみえて仕方がない。