時間をメディウムとして扱う、と推測する時、そこでピカソの作品に感じられた(製作的)時間とは、もしかすると空間的に把握されているのではないだろうか(建築的、といってもいい)。絵画は眼前の光景の断片ではなく全体を瞬間的に把握する手段である、と言っていたというピカソにとっての「瞬間的」なるものが、ピカソの作品の“次から次へと”といった感覚と接点を持つとしたら、それは、空間とは別の時間ではなく、いわば「時空間」といった概念として要請されるような気がする。まるで絵の具や粘土のように伸び、うねり、薄まり、凝縮する時間。そしてそのような時間は、製作の場面でこそ現れる。こういった様相は、おそらくはピカソが生前は積極的に公開せず、死後の相続によって世に現れた彫刻作品にこそ見てとれるように思う。今回の展示にあった「バイオリン」や「女の頭部」も興味深いが、ここでは「人物」について書く。


「人物」は1928年に作られている。鋼板の上に、細く長い針金を何本も接合して作られている。高さ60.5cm、幅34cm、奥行き15cmという、縦に長いボリュームを持つ。一見複雑な構成だが、主要な構造としては台座となる長方形の鋼板の後部に、鋼板面を底辺とする細長い三角形を立て、その前に一番高い四角型を、やはり鋼板面を底辺として立てる。この四角形の頭頂部の下に小さな円盤を下げ、後部三角形の頂点と円盤の下点を針金でつなぎ、それを水平に前へ延長して鋼板までおろす。また高い四角形の中点や、三角形の上部につけられた半円の先端から前方に向かって4本の針金が伸び、中空の1点に集まって横倒しになった四角錐様の形態を作る。この四角錐の頂点に、大きな弧を二つ合わせたようなx字の針金がついている。この四角錐の頂点で支えられ宙に浮いたx字の4つの先端は小さく3本に枝分かれしている。


彫刻の特徴、ことに絵画を描いているものが彫刻を試みた時に気づくのはそこに前提となるフレームがないことだ。もちろん、台座が形成する一種の「境界」や、彫刻が置かれる空間がフレームになる、ともいえるのだが、それはいわば事後的なものであり、控えめに言って操作可能性の高いものだと言える。絵画は原則としてキャンバスの四方は予め確定されているものであり、これはシェイプドキャンバスや木枠から画布を外した場合でも解除されない。やや踏み込んで言うならば、動かしがたいフレームの圧力を条件として持つ物を狭義の絵画と呼ぶ。ピカソキュビズムにおいて引き延ばされたようなトンド(円形キャンバス)を用いたのは、矩形のフレームがキュビズムの内的構造に干渉するのを防ごうとしたものだと思えるが、無論それはフレームの解除には繋がらず、別種のフレームを呼び込んだことになる。


「人物」においては、針金で構成された各要素は、台座になる鋼板の四角形を上に延長させてゆくとできる想像上の直方体から出る事がなく、ある意味保守的に、空間的フレームを仮構している。しかし、それはやはり絵画のフレームのような強固なものではない。物理的には存在せず、あくまで意識上のものとして(事後的に)感じられるのであり、もしピカソが試みればこのフレームからはみ出ることは容易だった筈だ。ならば、「人物」を現象的に規定している意識上のフレームはピカソが選択した結果ということになる(「バイオリン」などではこのフレームがあっさり解除されている)。しかし、同時に、「人物」は、その内部に「運動」を持っていて、このフレームをいまにもはみ出そうとしている。すなわち、不安定さを強調する細い針金による縦長の構造に、不釣り合いに前方へ延ばした形態を接合し、その突端にx字のボリュームを連結することによって、前へ転がり出しそうな感覚を引き起こさせ、それがこの決して動かない彫刻を、今にも歩き出しそうなものにしている。


こういった現象的な(知覚水準での)フレームの仮構とその揺り動かしの背後に、明らかに絵画の問題からのピカソの認識の展開を見ることができる。それはピカソにとって彫刻が二次的なものだったという断定ではなくて、そもそもピカソの製作それ全体が認識の試みの様々な形態である事を示すに過ぎない。「人物」の針金がもたらす運動感覚は、線が空間に描く軌跡の実体化であり、その線を伝って駆動する諸知覚(視覚だけでなく、その線を組み上げてゆく、想像上の身体。これはけして即物的ピカソその人の身体ではなく、ピカソ自身も鑑賞者として立ち上げる、作品が生む現象的身体だ)は、無数の回路を孕みながら、その「流れ」がいつしか「時間の経過」と「空間の配置」の一致として立ち現れる。そしてここでの時間こそ、「製作の時間」、つまり作品が作られて行く過程の想像上の再現としての時間なのだ。線の行く末を追う「時間」と、しかし一挙に把握される「空間」は分割されず同じ「作品」として起動している。この時空間は、前へ投擲されようとしながら、その予感の直前で踏みとどまることによって、逆説的により強いスポーツのテンションを持つ。ピカソの扱うメディウムとしての時間は、精神分析社会学などをけして簡単に介入させない。それは最後まで、作品の表面が持つ知覚の構造として見えているものだと思える。