・逆に、決定的に覚えていて、かなりな程度「あの感覚」を想起できる経験がある。私は、2006年の1月のイタリア旅行の事を、いまだに相当程度覚えている。それは何があったとか何を見たとかそういうことではなく、まさに「あの感じ」として覚えている。冬の陽に照らされた石の道や協会、食事の味や匂い、夜のにぎやかさといったものの感触を含めての「あの感じ」が、なまなましく思い出せる。


・それは1月が近いからだろうか。そういえば「春の感じ」や「夏の感じ」といったものは、その季節が来るとかなりリアルに想起できる。ここでポイントになっているのは多分集中力と反復による刻印だろう。私はイタリアで見る絵画や風景に対して、やたらと入り込んでいた。こういった集中力が、私にイタリアの「あの感じ」を残したのだろう。


・季節は何度も繰り返し経験している。もちろんその都度季節は異なっているし(寒い夏、あたたかい冬、東京で過ごした春、埼玉の秋)、その細部は思い返せなくなるだろうけど、おおまかな、骨格となっている「夏の感じ」「冬の感じ」は、多分自分の中に感触として堆積して、ざっくりとした、しかしリアルな経験として思い出せるのではないだろうか。


・さらに言えば、ある人と会ったときの「感じ」というのも、不思議な残り方をする。ここには集中とも反復とも異なったものがある。1回きり、しかもすっと軽く出会っただけの人でも強い「感じ」が残ることがある。


・多分これらはそれぞれ、レベル(位相)が異なっているだろう。なおかつ、それぞれのレベルで、作品の経験を思い出すことと、どかこ共通している。なんらかの意味で「感じ」を思い出せる(気がする)作品の経験がある。同時に、作品を見て、その場を離れて、なおかつ思い返せるものというものはまるでない、という言い方もできる。ここでいくつかの問題系が析出される。まず「あの感じ」と言っていることの精度。それは思い返せるとして、どの程度正確なものだろう。また、どの程度の細部を含むだろう。また、図版や記録の問題。


・精度、と言った時、そこにはまったく正確さの保証はない。というよりも、それは検証のしようがない(だから「間違っている」とも言う事ができない)。また、細部に関してもいいようがない。細かなことを、異様にくっきりと覚えていることがある。そしてそれが後に明らかな誤りであることが分かったりする。そして、そのような不確定性に基づいているからこそ、思い返せる「あの感じ」というのは揺るぎないという、奇妙な性格をもっている。大雑把で、不正確な細部ばかりで構成されながら、しかし、だからこそその骨格において強さをもつ「あの感じ」をもたらす作品。


・この「感じ」こそ図版や記録から失われるものだろう。そこには「感じ」が取りこぼす全てが在る。正確な細部、検証可能な客観性、流通可能性。もちろん逆のことが言える。正確さや細部や事実性こそ、「あの感じ」からはとりこぼされている。それは交換できず、検証できず、流通できない。我々が、正確に、厳密に、相互に検証可能なようにする作品の分析というのは、常に図版や記録といったもの、それを私は今仮に「資料性イメージ」と呼ぶけれども、そういった「資料性イメージ」の共有からしかなしえない。


・反対に、「あの感じ」といったもの、不確実で不正確にも関わらず、それ故に揺るがせにできないものを「知覚性イメージ」とする。こういった「知覚性イメージ」の残る作品が良い作品だとは、もちろん限らない。今、まさに見ている、その時だけ強烈な作用を発揮しながら、しかしそれを「知覚性イメージ」として思い返すことができない作品というのがある(「知覚性イメージ」は残りはするのだけど、それがとても嫌なものでもあることがあるし、または極端に安易であるが故に「残り易い」作品というのもある)。


・そして、元々の場所に戻ってしまうが、この「知覚性イメージ」は、そもそも記憶が「できる」ものではない、ということなのだ。それは、決定的に不正確で、実証できない記憶そのものから遡行されて発見される知覚だ。更に言えば、もちろん「知覚とは既に記憶なのである」。