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・絵を見ながらその作品について考えることは難しい。私は、絵画作品について考えようと思うなら、その作品の前を一度立ち去らなければならない。作品を見ている時、私の諸知覚は刻々と信号を私の脳に届けてくる。絵を前にしている時は、その送り続けられる諸知覚を、ただ受け入れているしかない。そこに思考を介入させると、知覚が止まってしまう。
・考える、という行為に伴う知覚の暫定的停止。私は一度作品の前を立ち去り、離れ、一定の時間をおいてから、何事かの契機で、かつて作品の前で流れ込んで来た諸知覚の「感じ」をゆっくりと思い返す。この「感じ」、つまり知覚性イメージは記憶だ。誤りが含まれ、細部は失われ、検証できず、流通させることもできない「感じ」。それは信頼=公共的信頼はまったく持ち得ない。公共的信頼は資料性イメージにしかない。
・近代的な美術研究/美術史が作品図版によって展開してきた事を、少し極端に差別すれば、それは「作品」について考えてはこなかった。それはひたすらに「資料」について考えて来たのだ。近代がメディウムの純化と自立的展開だったと単純化すれば、近代的な美術研究/美術史とは、印刷図版や写真といった「資料」というメディウムを掘り下げていった。積極的に言えば、そこでは「資料」のもつ資質が特化された。それは精緻さであり、厳密な検証可能性であり、形式的に言って「開かれて」おり、流通され交換される。それはそれ自体で見事な体系を構築してゆく。だが、再三確認されなければいけないのは、その見事さは、作品についての思考ではない。
・同時に、作品それ自体の前では、思考は形態を維持できない。作品それ自体が、刻々ともたらす諸感覚は、ただひたすら思考を流産させてゆく。まるで受精しない果てしない排卵。あるいは受精しても、胞状奇胎として構造をなさない胎児。そこではそのアンフォルムこそが夾雑物のない、純粋な作品経験なのか?これこそ形而上というものだ。作品それ自体の前での諸知覚こそ、ノイズの集積というべきだろう。そこには展示環境などの外的ノイズ、見る「私」の内的(生理的)ノイズ、またその作品が見られる歴史的・社会的文脈のノイズが渦をまいている。それらを除去することは原理的にありえない。それらのノイズの一部としてしか作品は現れない。
・むしろこういった方がいい。満たされたノイズの中に、とうてい聞き流すわけにいかない「ちから」をもったものがある。この異様な「ノイズ」はなんなのか?そこから作品を巡る思考が受胎する。
・覚えていられない/忘れられない。相反するイメージ、つまり知覚性イメージに基づいて考えなければ、人は作品を思考できない。それは、「私」の感覚、直接的作品経験の顕揚とは異なるし、図版をもとにした、厳密になる他行く先がない、同時に作品とはそもそもメディウムが異なる自立的で独自な何事かについての思弁でもない。作品を見て、そこから立ち去って、なお資料とは異なるイメージが、残っていない/残っている。不正確であやふやだからこそ、確信があるイメージ。間接的でありながら確かに連続しているイメージ。私にしかないものでありながら、決して私が触れることができないイメージ。ノイズの残響。
・驚くべきところへ私は出る。つまり、作品そのものに作品はない、作品の残響に作品がある?このような言い方は何かを混同している。つまり、作品と作品についての思考を混同している。こう言い直す。作品についての思考は、作品の残響にある。