・自分を価値づける根拠がまったく確認できない感覚は、人を辺り構わず大声を出してしまいそうな精神状態にさせるだろう。声を出す瞬間だけはその感覚を忘れられる−それは、例えば怪我で激痛に襲われた時に大声で叫ばざるをえないことと、同じ事なのだろう。もちろん「まとも」な人は、ほとんどの時間をそのような感覚を忘却して生活している筈だ。だが、それは、私が想像するに、実は意外に多くの人の生活の影に張り付いている状況なのではないか。


・あなたは、時折、まったく無意味な声を出したり、突発的な行動をとって瞬間的に「不安」を振り払ったりしていないだろうか?そんな経験などない、という人がいたら幸いだと思う。言うまでもなく、こういった行動は精神的な疾患と相似形を描いている。ただ、それはたいてい短時間で終わることなので、日常生活に支障がないだけだ。電車などでたまに見かける、あきらかに異常な行動をとる人が、少なくともその外見は、ごく普通な会社員だったりすることがあるけど、おそらく、その人は実際普段「まともな人」として社会生活を送っているのではないか。


・こういった感覚、自分の存在を自分で把握できず保証もできなくなった感覚というのは、学校や職場・地域社会に所属していたりとか、家族を持っていたりとか、恋人や友人がいたりとか、といった条件によって緩和されるとは限らない。第三者に承認されてさえいれば問題ない、という事ではない。まずなにより、自分を否定してしまうのはその人自身だ。正確に言えば、その人の理想自我だ。人は自分自身に疎外された瞬間に発狂する。それを準備する要因として、家族や周囲の人間関係、社会などからの疎外があり得るとしても、最も重要なのは自分自身による自分の承認だ。これが壊れる時がある。


・製作の場面でこういった状況が起きると、まず作品そのものがなりたたない。そこにはただの破壊衝動しかなくなる。こういった事はなんとなく誰にでも理解されやすいと思うのだけど、逆に、完全に安定してしまって、まったく自分の有り様に揺らぎがなくなったとしたら、どうなのだろう。結論から言えば、作品は、出来る。しかも、安定的に出来て行く。それはたぶん良いことだと思うし、実際、現実に製作をしていこうと思えば、そういった安定は不可欠だろう。自信を持って、冷静に、作品を構成していくことができなければ、不安の発散にしかならない(それは町中や電車内で奇矯な声を上げる行為と変わりない)。


・だが、しかし、同時に、そういった感覚、つまり価値や関係性がまったく保証されていない奈落の底に自分の心理を投込まれるようなおそろしさを内包しない製作、というものも、私には想像できない。もしその感覚がないのなら、それはもはや安定した製品であって作品ではないのではないか。私は、10代の頃、こういった感覚は、「大人」になれば解消されるものだと思っていた。また、周囲の人間関係が整っていれば、回避できるのだとも思っていた。だが、そうではなかった。私は今でも駅で、町中で文脈の壊れた声を上げそうになる*1。この衝動は、より確かな人間関係でも社会的承認でも抑えられない。自分で承認できる自分(の製作)だけで、これからは逃げられない。


・私にとって、春は、この種の不安が増大する季節だ。怖い。

*1:本当は、たまに無意味な言葉を、多分周りの人に聞こえるような大きさで言ってしまっている