もやしもん」(石川雅之)を読んでいて感じるのは、このマンガに書かれているのが基本的に恋愛に対する“友愛”の優位だということだ。私が以前エントリを書いた「げんしけん」に似ている(参考:id:eyck:20070301)のだけど、基本的に主人公の「恋愛弱者からの卒業」を描きながら図らずもサイドストーリー(班目の叶わなかった恋)において“友愛”を描いてしまった「げんしけん」に比べ、「もやしもん」は遥かに意図的に“友愛”を描いているように思う。


もやしもん」は、農業大学に通う主人公の「菌が見える/菌と話せる」という能力を起点にしながら、ゼミ内部の同級生、先輩、先生、あるいはその周辺に関わる人々の交歓を描いている。この交歓を仲立ちしていくのが様々な「醸し」なのだけど、超能力と言える主人公の資質「菌が見える/菌と話せる」が地味に、半ば物語の背景になっていることは興味深い。ほとんど主人公らしからぬ主人公、沢木惣右衛門直保の存在意義は複数の異なる世界を仲立ちする触媒の作用にある。「もやしもん」を描く石川雅之のセンスが発揮されるのは、この触媒そのものではなく触媒された結果の現象、つまり世界を共有しない者が共に並び立って行く過程を丁寧に描いていることだ。そのメタファーがすなわち人とは異なる「菌」の作用による、人の世界への恩恵/すなわち「醸す」ということで、一見無意味なまでに詳細に描かれる発酵の原理は、この「異なる世界にいるものの共存」という(実は大きな)テーマに直結している。


このコンセプトを言い換えてしまえばそれが“友愛”という言葉になる。怪しい金稼ぎの為に大学を悪用する貧乏な先輩、彼等を軽蔑している裕福な出自の大学院生、主人公の能力をまったく感知せず、知らされても頭から信じない同級生、主人公と同じ大学に入りながら直ちに休学し女装する幼なじみ、彼等をつかず離れずで見ている教授や周囲の大人達は、物語の最初では、互いのエゴをかいまみせながらすれ違っている。このすれ違いや対立が、菌やウイルスによる発酵=「かもす」プロセスを見つめる沢木の前で、徐々に融和してゆく。この融和が、けしてダイナミックな恋愛物語ではなく、穏やかな中間集団の形成として描かれる。例えば当初反目し合っていた大学院生長谷川遥と美里薫は、どことなく恋愛めいた関係を持ち始めるが、それはけして二人の間で閉じたものではなく、むしろゼミ内部の大きな人間関係の一部として、ほとんど他のゼミ生と共有されながら進行する。二人が融和することによって、ゼミという中間集団のあたたかな「友愛」関係が増進されていく、その過程として二人の関係がある(7巻での、美里の隣に座る遥のシーンは象徴的だ)。


もやしもん」の“友愛”が、緩やかな共同体の信頼関係の(文字通りの)醸成、というだけでなく(つまり「仲良し」だけでなく)、ある種のセクシュアリティーを含んだ、少し大きなスケールのものであるのは、おそらく今だクローズアップされてはいない主人公・沢木と、その幼なじみで女装をしている結城 蛍の関係に予感されている。幼いときから特殊な沢木の能力を受け入れながら、共に上京してきた蛍は、入学直後に休学し学外で一種の「自分探し」をしている。そこで突然女装をし始め、再会した沢木に口づけし、沢木が他の異性と接近したような事を聞けば沢木を殴る。明らかに性差の混乱を抱えているこの青年は、沢木に対し「友情」以上の感情を持っているだろうが、そのことをあからさまにはしない。そして、これが重要なのだけれども、そこで沢木はそのような幼なじみの蛍を、退けるでもむやみに「恋愛」関係になるでもなく、ごく自然に受け入れている(この関係は、今まで沢木の特殊な能力を所与のものとして受け入れて来た蛍と対称になっている)。ここで二人が示しているものが“友愛”だろう。それは、上記の遥と美里の関係とも通じるし、彼等を含む、彼等の周囲に「醸されて」いる感覚にも通じている。


おそらく重要なポイントで彼等は相互に異なっている。沢木は蛍と、いわゆる一般的な意味での「恋愛」関係とはならないだろうし、美里と遥の間にも、相応に大きな落差がある。そういった落差を解消するのではなく、いわば相互に異なったポイントに立ちながら、しかしそれぞれにそれぞれを受け入れて行くことの可能性。それは単に微温的な「みんな仲良く」というものではないだろう。例えば菌やウイルスと人の関係が時に致死的なものでありながら、しかし慎重に、繊細にその関係を取り扱うことができれば豊かな「醸し」が成り立つようなものだ。菌やウイルスと人は決定的に異なる(非対称である)。なおかつ並列しうる。沢木と蛍も、遥と美里も、そして及川と沢木や遥と遥の婚約者といった人々も、同様に、非対称でありながら並列しうる。それが「もやしもん」というマンガが歩こうとしている道のように見える。そういう意味では、6巻のフランス編の重点は遥と「まっとうな異性愛」を強要されていた婚約者の、強迫からの解放であって美里と遥の間の感情の芽生えは今後の伏線にすぎない(遥と婚約者の二人の間には今後“友愛”が準備されていく筈だ)。


ここでの“友愛”は、けして恋愛を排除するものでも恋愛と対立するものでもない。恋愛をその一部に含み込んだ、より広いイメージなのだ。例えば描かれるかどうかは別として、遥と美里の性的な交歓も「もやしもん」の世界は排除しないだろう。更にいえば、沢木と蛍の性的な交歓も可能性として豊かに含み込むだろう。しかし、それは、いわば、“友愛”の一つの現れとしての恋愛であり性愛だろう。このマンガの、いわゆるまっとうな異性愛からの迂回は、武藤葵と及川葉月の女性同士の接触を淡く描いたあたりからはっきりしているが、それは迂回であって排除ではない。彼等は男性と女性なのではない。たんに人なのだ。「もやしもん」では、対幻想(吉本隆明)として閉じた鏡像関係ではなく、様々な方向へ開いた“友愛”こそが重要なのであり、その“友愛”は、無限の現れをする。菌やウイルスと人の“友愛”が、半ば人の住む環境全体への“友愛”になっている中で、人と人も“友愛”の関係を指向してゆく。


学生のサークル的中間集団のユートピアを描いた先験的な作品としてはゆうきまさみの「究極超人あ〜る」があるが、この段階で既に恋愛に優越する“友愛”は、とても原初的な形ながら描かれていた(さんごとあーるの関係を見よ)。いわばおたく的想像力を、1980年代に高橋留美子と共に準備したゆうきまさみは、しかし後に「じゃじゃ馬グルーミン★UP!」において、恐ろしく反動的な「まっとうな異性愛に基づいた自然なセックスと分娩と家族形成を大地の上で展開する」という驚くべき保守化を見せた(その後のゆうきの作品が短期で打ち切られ、雑誌をよりマイナーな場所に移して過去のリメイクで復活したことは注意すべきだろう)。だが、一度準備された“友愛”の想像力は、現在、自立して展開しつつあるように思える。この“友愛”の想像力は、異性愛恋愛へのルサンチマンとは別の水準で、いまマンガやアニメの世界の可能性としていくつかのシーンで感じ取れると思うのだけど、その最も明快な表現として、「もやしもん」は、とても面白い。