金曜日の夜に竹橋の国立近代美術館で「高梨豊 光のフィールドノート」を見てから考えていることがある(もう会期は終了している)。高梨豊の写真に関しては2005年の世田谷美術館での「ウナセラ・ディ・トーキョー」展の出品作について書いたことがあるのだけど、(参考:id:eyck:20050505)今回、高梨豊の活動の最初期から近作までを通して見て思うのは、漠然とした吉本隆明との平行性だ。吉本がある意味「現在」と並走しようとしながらその「現在」という設定(枠組み)自体に齟齬、というか「遅れ」が発生していたように、高梨豊にも「齟齬」や「遅れ」がある。だが高梨豊の場合、それが今になって妙な迫力とリアリティに繋がっている感じがする。


高梨にとって東京は単独の固有名詞で、他に取り替えがきかないだろう(それは大阪でも北京でもニューヨークでもあり得ない)。高梨は都市一般を撮らない。また、原則として「人間」を撮らない。最初期の「SOMETHIN' ELSE」では人を含めた全てのモチーフが画面構成の為のパーツとして構成的に取り扱われていて、このアンチ・ヒューマニスティックな視線はかなり後半まで続く。いわばモチーフとしての東京を撮る中で、人が東京の貌の部分として映る事がある、というだけだ。


「オツカレサマ」が「人」を撮っていると考えることは出来ないと思う。それは、言ってみれば「キャラ」を撮っているのであって(スタジオで、あえて有名人の「らしい」ポーズを撮る)、それを人間性の逆照射と見るわけにいかない。徹底的に非-人間的なポートレートを撮るのは、いわばのちのツルツルになった都市の表面を撮った高梨を予感している。ここでは人間の表面を撮っている。それこそ、東京の一断面としてのポップアイコンを撮ったのだろう。以降「東京人」「都市へ」と展開を見せる高梨は、自身が撮影に6年かかった、という「東京人 1978〜1983」の後、ぎりぎりのところで攻勢と撤退を繰り返す。このもみ合いが「遅れ」を感じさせ始めるのだとおもう。「新宿」はうらびれた店の店内を、「初國」では“都市の深層としての神さびた土地”を、「都の貌」では1920-30年代の建築を、遡行的に撮る。そこでは「ツルツル」になった東京に手がかりを見いだせない高梨がいる。


こういった、回顧的/遡行的な東京はもはや特権的・先端的な「都市」ではない。「都市」から遅れ始めた(高梨にとっての)「東京」だ。おそらく、1970年代のある地点までは、「東京」と「都市」の間の齟齬はなかったか、あるいは小さかった。東京を撮ることはすなわち「都市」を撮ることだっただろう。東京は固定していて流動しない「地方」に対して動き、流動し、交換される都市であることと同義だった。しかし、「東京人」の撮影された6年間に“破壊”されたのは、実は東京それ単独の風景ではなかった。いわば東京と「郊外」の関係だ。この時から、高梨はすこしづつだけ「齟齬」や「遅れ」を見せ始める。


横浜の「みなとみらい」が構想されたのが1979年、その後1980年代の10年を通して、「よこはま新都心」としてのみなとみらいが整備された。埼玉に「新都心」が構想されたのが1984年の国鉄操車場跡地の再利用計画としてだった。いわば日本中が東京化=新都心化してゆくのがこの頃で、そんな中で東京の「都市」性は、いわば都市全体の表象であることを止め、徐々に「東京という都市」という固有名詞的側面を強化してゆく。


ぶっちゃけて言えば、「東京人」を撮った後、どこか“後退戦”を闘っていた高梨に対し、より東京のフィールドワークを通してアクチュアルだったのはホンマタカシの「東京郊外」(1998)だったことは、この展覧会を見ると確かだと思える。2004年に「ノスタルジア」で大宮駅西口などを撮っている高梨は、この郊外化を後追いしている。そして、東京という都市を通じて、常に「現在」に並走してゆこうとしつつ、「齟齬」を見せ、少し「遅れる」その姿は、私にはとてもくっきりと、吉本隆明という名前を呼び起こさせるのだ。そして、もし高梨が吉本ならば、ホンマは自動的に宮台真司という名前と抱き合わせにさせられる。そして、このような見立てによって、高梨の写真には独自の意味が発生していくように思える(続く)。