2009-2010 アートのメルクマール(1)

おそらく、このエントリは昨年書いた「アート・インディペンデント・メディアの状況」(参考:http://d.hatena.ne.jp/eyck/20080417およびhttp://d.hatena.ne.jp/eyck/20080418)というエントリの後を受けたものになるだろう。私には、自分が企画している「組立」の公開対話と同じ日に、わずかに時間と場所を違えて行われる「美術犬」のイベントの存在が、ある種の指標として感じられる。


■「美術犬(I.N.U.)」 第二回企画 シンポジウム「絵画」


ためしに「組立」のイベントの情報を並べようと思う。
■「組立」対話企画 上田和彦×林 道郎〈筆触・イメージ・身体〉

  • http://d.hatena.ne.jp/nagase001/20090404
    • 2009年4月4日(土)18:00より(当日は17:30以降作品を撤去します)
    • 場所:photographers’ gallery
    • コーディネート:永瀬恭一


この奇妙な平行性を、偶然だと言って済ませることは私にはできそうもない。ここには偶然にまぎれた必然があり、その必然に意識的であることが、たぶん2000年代最初の10年の終わりから2010年代への移行に必要なのだと思う。


美術を巡る思考が、一定の形式をとり始めている。私が昨年書いた「アート・インディペンデント・メディアの状況」のようなこと、小規模シンポジウムとかweb上からの情報や思考の発信が、特殊ではなく一般のものになってきた。2つの催しが重なったのはなぜか?この種のイベントが多量に、かつ頻繁に行われるようになったからだ。この傾向は昨年後半からはっきりしてきた。2008年12/23には国立近代美術館で「批評の現在」シンポジウムが、2009年1/25 同「生命という策略」が共に四谷アート・ステュディウムの主催で行われた。また、1/28には東京工業大学で「アーキテクチャと思考の場所」が社会学とアートを横断するような性格で行われ、2/2には美術犬による第一回シンポジウム「美術」が行われた。もちろんこれは一部であって少しスタンスを広くとれば「公開で誰かと誰かがアートについて考える」という形式はいまやそこかしこに見えている。


ことに美術犬の積極性と視野の広さは明らかに突出しているだろう。相応の組織を持ち、半ば昨年までに出そろった戦力の「総まとめ」の感があった四谷アート・ステュディウムのシンポに比べれば、新鮮さとモチーフのシリアスさは際立っていたし、今も一つ抜けている(そういう意味では、四谷アート・ステュディウムはいまや状況の最前線ではなく、前線から一歩引いたところにある一種のセンターになっている)。また、やや異なる形式ではあるが、「公開で誰かと誰かがアートについて考える」ということならば、2008年9月に開始された田中功起氏によるwebポッドキャスト田中功起、言葉にする」も注目されるべきだろう。奥村雄樹氏、粟田大輔氏との会話をほぼそのまま配信していくこのスタイルは、過去いくつかの試行錯誤、自らが美術を考える言葉を流通させる形の模索を見せていた田中氏にとって、もっともフィットしたものと感じさせる。内容も充実している。ことに、相応の親密な関係を感じさせながら、外部の者が聞いても理解できる言葉遣いがされているのは注意していい。


2009年1/12に開かれたレビューハウス☆ドリームナイトという、課題に対する応答作品を公募し公開の場でディスカッションしながら審査していくという企画も、「公開で誰かと誰かがアートについて考える」という形式に収めてよいように思える。GEISAIが当初の潜勢力を失ってほぼデザイン・フェスタと同義のものになっている今、そして様々な公募展や賞制度が形骸化している状況下で、この企画が成立していることは重要だ。伊藤亜紗氏によりwebに公開された作品は、芸術の質、という意味ではやや判断を保留せざるを得ないが、一定の水準は超えているように感じられる。今後、メディア的展開が上手くいけば、もっと規模も水準も大きく高くなっていく可能性はあるだろう。


「美術言説の活発化」と言ってもいい状況から、どのような世界が見えてくるだろう。ごくシンプルに考えれば、以下の形態に制度化されていくだろう。すなわち

  • ジャーナル
  • マーケット
  • アカデミー

の3つだ。今展開している様々なアートの周辺的(すなわちインディペンデントな)動きは、成熟するにつれてこの3方向に収斂していくと私は予想する。これはほとんど構造的なものであって、内部にいる、個々の人々の意思や思想や志とは関係がない。ここでこうやってwebで書かれた文章であれば、制度化、という言葉がネガティブに響いてしまうことは避けられないのだろうけど、それこそ制度的なクリシェというものだ。美術は、いってみれば制度そのものだし制度に外部はない。単に制度に自覚的であるかないかの差でしかない。問題は、制度の内部にいながら常にそこからずれてゆく強度を持ち得るかであって、それこそ個々の潜勢力が試される場面だろう。(続く)