今回の「組立」は、4月8日の夜8時に無事会期を終えることができました。

ご来場下さった皆さんに感謝します。


・今回は、ことのほか会場で聞いた意見や質問に触発されることの多い展示だった。自作に対したとたん、言葉が貧しくなってしまうのだけど、お声がけ下さることによって改めて意識的に自作を検討し、制作時には自分で見えていなかったことが見えた。有り難いことだと思う。


・上田さんは8日の夜、8時過ぎたところで直ちに撤収作業を開始した。壁からひょいひょいと外しては持参の布バックに入れて終わりという、私の経験した中でも最も簡易で短時間な撤収で、5分もしたら終わっていた。上田さんはそのままお友達とどこかに行ったようで、世界堂前の交差点で分かれた。


・私の搬出は翌日で、9日のお昼12時に会場に再度出向いた。pgの大友さんが来て会場を開けて下さっていて、預けていた梱包材を出してもらい、早速作業に入った。バラシは仕込みよりずっと楽で、ばらけた木枠や画布を箱詰めしてしまったら宅急便の手配。これも大友さんに電話して頂き、会場をざっと掃除機がけして、箱に入らないものだけキャリーに固定して自分で持ち帰れるようにまとめて、あとはpgのショップ+スタッフルームで集荷を待たせていただいた。


・コーヒーを出して頂いた。おいしく飲んだ。pgのショップには「WB(早稲田文学)」が置いてあって、そういえば古谷さんがblogでこれを目にした、と書いていた。表紙はpgの北島さんが撮影されたもので、しばらくpgメンバーが「WB」の表紙を担当していたそうだ。大友さんに、よかったらどうぞ、と言われてこれがフリーペーパーであることを思い出した。


・倉数茂氏の文章を一部引用する。

おもしろいのは、網膜細胞ばかりか、脳の視覚処理システムもまだ未完成である新生児は、目をあけていてもあまり目線を動かさない。だがひと月ほどすると、目の前の物体の動きを追うようになります。しばらくすると、今度は人の顔を追いかける。ただし正面像だけです。顔の形状のみに反応するニューロンがあることは知られていますよね。その原初的な機能が作動しはじめて、今、彼女の中で世界が〈顔〉として切り出された、とうわけです。

けれど興味深いと思ったのは、こうした−あえて機械的と呼びたい−非意味的なプロセスによって、自己と世界が徐々に分離していくにしても、その世界はすでに〈顔〉のような人称性を帯びている ということです。これは結局、人は他者という装置を通してしか世界という情報を処理できないことを意味しているのではないか。われわれは決して本当の意味で一人にはなれない。なぜなら無人の風景ですら、すでに顔と声によって満たされているから。(WB青木純一+倉数茂往復書簡「アモイで、考えてみた」)


・私が以前子供について書いたエントリがある(参考:id:eyck:20081126)のだけど、この倉数茂という人は、遥かに明晰に子供の観察を世界の認識の理解に繋げていて驚嘆した。この認識をてこにして、倉数氏は小説になぜ「登場人物」がいるのか、という問いに繋げ、更に現在の日本の小説の特徴に繋げる。

視点がないわけではないが、特定の主体に定位させることはできず、微妙に遊離していく。福永信もそんな感じ。(前掲誌)


・ここで名前が出て来た福永信氏の「三か所」が連載の最終回として同じ誌面に載っていて、これを読み出したら本当に倉数氏が言う事を実践しているみたいだった。脳がバス酔いするような文章だった。

  • バスに乗っているAという人物が出てくる。
  • この人物が見えない事を書いている「書き手」が暗示される。
  • 段落替えであっさりこのAに子供ができるだけの時間の跳躍を作りながら、
  • Aの子供はAと類似した行為を反復してAとAの子供は読者の意識下で混濁する。
  • Aはいつしか「母」と呼称される。
  • 「B」から手紙が届く。「B」は目が覚める。前段がBの夢であるように想像させる。
  • Bはバスに乗っている。
  • まったく文脈と無関係な「C」が現れる。
  • しかしCには「母」がいる。故に読者はCをBの「夢」のAの子供と連結させられる。
  • Cの、些細な、しかしどこか非現実的な、妄想めいた意識の描写が長く続く。
  • 段落が変わって曖昧な人称の「一人」が声をかける。
  • それに応答する形で「D」が出てくる。
  • 「砂場」で「ゼネコン」の一大事業が行われる。
  • 先の「一人」を含むだろう「みんな」が作業をしている。
  • さらに外部から「隕石」を衝突させる「五年生」が現れる。
  • (「みんな」の中に)Dに命令するものと、Dに被害を与えるものと、Dを笑ってみている者がいる。
  • Dの被害を回復しようとする「やつ」がいるが「やつ」と書かれるためDとは異なった人物に見える。


・ここでは段落替えとか、人称のあいまいさとか、そういう事を使って様々に異なったものが連結されつつ同時に分断されている。そこで引き起こされる主体(登場人物)の混乱を、文章半ばに「目が覚める」という言葉=夢をメディウムにしながら、どこか最後の最後に「書き手」という超越的主体が浮かび上がるけど、この「書き手」は「読み手」でもある。この「書き手」と「読み手」は明確には最後まで分断されないので、福永氏の文章は「主体がばらばら」とも「主体が統一」ともどちらともつかない。


・連載の最後だけ切り出してもとんちんかんなのだろう。古谷さんが書いたという新潮の福永信論はこういうことが分析されているのだろうか。もっと包括的なものなのだろうか。また、それは倉数氏の認識と連結するものなのだろうか。まったく角度が異なるのだろうか。そういえば前回「組立」の芳名帳に欄外までポジティブな感想を書いてくださったのが福永さんだったことを思い出した。ありがたく思いながら、しかし、後で行われ福永氏が講師になったYotsuya Art Studiumの「批評(創造)の現在シリーズ」には伺わず、後ろめたい気持ちでいたのだった。


・宅急便の集荷はこない。いつまで待っても来ない。目の前にはpgスタッフルームの窓から強い光線が入っている。ブラインドの羽がきらきら光っている。その脇でMacを操作し今期「組立」のpgのwebページをアーカイブへ移動している大友さんの横顔は暗がりになってよく見えない。窓の手前には本がたくさんあって平凡社の「日本写真史」が大きくて目立つ。高橋万里子さんがやってきて、次の展示の準備を始める。ああ、あたりまえだけど何にも終わってなくて、こんなにもいろんな人が「世界」について考え続けているんだなぁと、ちょびっとだけ感動する。