先の「アートのメルクマール」の記述について黒瀬陽平さんが触れられています。

読む人に不用な推測をさせるような表現だったでしょうか。そのような意図はなかったのですが、もしそうなっていたら申し訳なく思います。


私がこのエントリで書きたかったのは本文中でも書きましたが「一見無関係な文脈にあるものが意外な連結をし、逆に別な所では分断が起きている」ことです。例えば黒瀬さんが触れられている箇所で示したかったのは、黒瀬さんも古谷さんもお互いの活動に対しては(私が知る範囲では)触れていないにもかかわらず、このお二人は活動基盤の経済構造/文脈構造どちらも近似したところにいる。そしてそれを可能にしているのは「複数ジャンルを同時に批評しうる二人の多ジャンル性」という才能で、これも共通している(しかもどちらも美術とオタクカルチャーを結んで考えられる)。


でも上記のように相互を結ぶ線が当事者にない。ここを指して儀礼的無関心と書いたのですが、私個人の推測(お二人がお互いに関心が在るかどうか、は私の推測ですから)を含んだために、妙なニュアンスに見えてしまったのかもしれません。しかしやはりもったいないとおもうのですが、この、明らかにクロスオーバーしている二人を結ぶ線を作ろうとするエディターシップが周囲にも見えない。世代的な事を言えば、もしかするとまず結ばれるべき線は東浩紀さんと古谷さんかな、とも思うのですが、東さんは美術に対して部分的なコメンタリーしか今まで残しておらず、もしここを結んだとして生産的な発展があるのはおそらく文芸批評の文脈となっていって、美術的な内容ではないでしょう(それはそれで見たいですが)。


今の美術状況が、いくつかの可能性を持ちながら、しかしいまいちブレイクしないのは、複数のホットポイントが各個に島化して相互に交通事故が起きないように慎重に(ここも推測ですが、でも多分当たってます)ドライブして“上手く”すれ違っているからだと思うので、そこを明示するためにあのエントリを書きました。黒瀬さんにも、読んで下さった方にもご理解いただければ幸いです。美術の風通しを良くしたくて書いた記事が逆効果を生んでしまったとすれば反省します。