少し前に寺島みどりという人の個展をneutron tokyoで見て来た。知り合いにもらったDMをたよりに、外苑前の裏道を探していった。基本的にキャンバスに描かれた油絵だ(いくつか紙に描かれたものもあった)。この作家の絵で、最も良いと思わせられるところは油絵の具のグラマラスな扱いにある。画面に、ダイナミックに絵の具を広げて行ってはそれを積層させてゆくのだけど、広げ方そのものの、勢いのようなものが、しかし次の層を重ねるときの微妙な抑制(前の層の乾燥の段階を見極める、また完全には潰してしまわず適宜隙間を残して下層を覗かせる)によって、画面や色彩が混濁せずに新鮮なまま、効果的に定着している。


パレットで色彩を作らず、キャンバス上で混ざる混ざり方を、おそらくごく感覚的に計りながら、まるで自転車で平均台の上を走り抜けるみたいなスピード感と危ういバランス感覚を使って画面を構築している。率直にいえばその「危なさ」は、けっこうな率で頻繁に「落っこちている」。つまりけして十全に走り抜けきらずに失敗している箇所もある。例えば色彩が結果的に鈍くなってしまっていたり、ストロークの反復がやや単調になってしまっていたり、あとから付け加えられた、装飾的なドローイングが作品をイラストレーション化してしまっていたりもする。それでも、この作家には確かにある一定の資質、絵の具とキャンバスと筆と身体の関係を、生き生きとした状態で組織し続けるセンスはあると思う。そういう徴候がそこかしこにある。


具体的には、この作家はいくつかの作品で画面の隅を適切に放置している。この抜けが画面を上手く呼吸させている。こういう上手さは、かつての最良の中村一美氏の作品に見られたようなもので、中村氏の場合は絵の具をすこしずつズラすことで、ズレとズレの間隙が作品を呼吸させていたと思うのだけど、寺島みどり氏は、画面に対して垂直に絵の具を積み重ねながら、上に乗っかる層で全てを覆わせない、というやり方で成り立たせている。最も面白いのはブラッシュストロークの運動の痕跡の、目の回るような残り方で、粘度の高い絵の具が混ざりながらギラリと光るようなマチエールを作る。この筆触がマニエラにならず、その時々の画面や素材や作家の状態に呼応して変化してゆくため、「方法で作っている」感じがなくそのつど1回の出来事を確認しているように思えるのだ。


こういった作品は一定の経験とか技術が要請されるものだと思うけど、そういうものが全面化すればそれらはパターンになりフレッシュさをうしなう。言ってみればこの寺島氏の「上手さ」は事後的に、つまり絵の具とキャンバスの状態の生々しさを殺さないように、ほとんど「上手くならないように」発揮されている。このような反語的なありかたは「下手ウマ」というような決まり文句から最も遠い(例えば、私が否定的に見た、小品の画面上層に付け加えられたイラストレーション的筆致は、それだけ取り出せば単に上手い)。ちょっとぎょっとするような緑色の扱い、または混ざってグレーになる白の扱いなどを見ると、生理的な感覚を引き起こすような絵の具のナマな扱いが、相当程度意識的であることがわかる。


一瞬デ・クーニングやブライス・マーデンを想起しそうになる、ちょっと変な作家だと思った。外苑前の、贅沢な住居をイメージさせるギャラリーに置かれていて、それはそれでとても似合うのかもしれないけど、倉庫とかそういった無骨な場所でもアリに感じてしまうところもある。展覧会はもう終わっている。