「組立」期間中から終了後の今にいたるまで、上山和樹さんと私の間で続けられているメールでの対話が部分的に公開されていることを「組立」専用blogでご紹介しました。こちらの「paint/note」でも、主に私の問題意識について書いておきたいと思います。


上山さんの当該エントリはこちら。


おそらく、上山さんの事後分析を併せて読まれた方、ことに美術的な接点から読まれる方なら、これが美術家の社会的活動の側面から興味を持ちうるモチーフだ、と感じられるかもしれません。もちろんそれは正しい。例えば今、両国の美術家の自主運営ギャラリーArt Traceが企画している講義「アーティストが知っておきたい諸々の現実的なこと」とも関連して考えてもいいかな、と思います。


しかし、私の中核的な興味は、作品それ自体の制作に内在する「判断」、その“素材化”にあります。作品が「うまくいく」とはどういう事態か?あるいは作品が「うまくいかない」とはどういう事なのか。これこそが、アーティストに限らない、何事かを生産する人々の最もコアとなるモチーフであることは疑いえません。


上山さんとのメールのやりとりでも触れていますが、昨年出版された「ディスポジション」の問題意識『明晰判明な主観認識にもとづく世界観の専横を脱し、より「うまくいく」世界の可能性を探る』(同書キャッチコピーから。参考:http://www.liv-well.org/disposition/)というものと部分的にクロスしますし、logの公開とその分析、という観点であれば濱野智史さんのICCアーカイブにある発言ともリンクします(参考:http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2009/MetaverseProject/vol1_3_j.html)。


そして、更に言うなら、この「うまくいく/うまくいかない」という状況の、絶え間ない分析−ここでは「うまくいかない」事だけでなく、「うまくいっている」状況も常に分析され続けて行く(そうでなければいつでも「うまくいかなくなる」かもしれない)−ということは、ほぼ生きて行く上で、全ての主体にとって必要不可欠なモチーフであると考えます。そういう意味では、先に国立近代美術館で行われた公開セッション「生命という戦略―時間あるいは空間(経済そして政治)のはじまりとしての」とのほうが、テーマとしての平行性は強いかもしれません(参考:http://artstudium.org/2008/session/s02.htm)。


メールによる対話の、当事者同士の分析と言う、いわば「閉じた」素材を即物的に開いて行くために、いくつかの外部へのリンクを張ってみましたが、これはもちろん我々の対話のためだけではなく、そこに埋め込まれた(その多くが上山さんの「哲学」であることは強調しておきます)主題の、意外な普遍性と広がりの大きさの潜在性を開示したいからでもあります。どうぞご一読下さい。