東京国立博物館で「国宝 阿修羅展」。興福寺の阿修羅像を含む八部衆立像、それと並んで十大弟子立像を中心とした展覧会。平日の午前中に行ったのは正解で、十分混雑していたものの、なんとか納得いくまで見る事ができた(一番状況がいいのは夜間開館の時だろうとは思う)。興福寺は2007年の秋に訪れていて(参照:id:eyck:20071029)、この時見る事ができなかった運慶の無著・世親立像が来ていたりしないか、と淡い期待をして行ったのだけど、これは叶わなかった。が、消失した金堂に変わって国宝館という建物のガラスケースに収まっていた八部衆は、この展覧会の方がずっと良いコンディションで見られる。ガラスに遮られることなく、背面まで回り込んで目視できるのは素晴らしい。


八部衆立像の「密度」は比類ない。どれもけして小さな像ではないのだが、迦楼羅緊那羅といった像の小作りな顔立ちは、どこか圧縮された面構成をしていて、周囲の空間を凝固させるような力を持っている。このような造形は、ある程度は乾漆造という奈良時代特有の技法からもたらされているだろう。芯木に粘土でおおよその像を作り、そこに漆+麦粉を含ませた麻布を張り、表面を更にペースト化した漆を盛って仕上げていく、という行程は樹脂によるフィギュア造形に近い感覚があるのではないか。ダイナミックな構成よりは、どちらかといえばこまやかな表現に適しているだろう技法で作られている。どの像も少年のイメージで、この技法と素材にマッチした表現を作り手が吟味したことがトータルな完成度の高さに繋がっているようにおもう。


と、今言ったことと反するのだけど、八部衆立像は例えば同じ技法で作られた十大弟子立像より、ずっと複雑な構成を持っている。大きな動きとは言えないが繊細なプロポーションをもっており、四肢や頭部といった各パーツを組み合わせ組織してゆくその有り様がかなりな程度離散的で、一木による仏像のようなモノリス的単一性/onenessといった感覚があまりない。ことに阿修羅は、おおげさにいえばデイヴイッド・スミスみたいなコンストラクション的空間を見てとることも不可能ではない。上記のような技法上の特質に普通に従えば工芸的でスタティックな像になりそうなのだけど、八部衆立像はそういったリミットに収まらない構造を持っていて、少し感動的だ。十大弟子立像が、富楼那須菩提といったものが比較的優れていながら(最も良いと思ったのが富楼那像だった)、全体として静止して単調に見えたのは、技法的枠組みからまったくずれていない為で、こういった言い方は多分不当なのだろうけど、造形として豊かに見えてくるのは明らかに八部衆立像だろう。


阿修羅は意外に足が伸び上がるような、少し不安定な付き方をしていて(側面から見るとよくわかる)、それが前に出された手とバランスしている。各パーツの連結部分はけっこう危ういというか適当な「ごまかし」で成り立っているとおもうのだけど、それが離れてみるとふっとトータルな全体性を持って/かつ、同時に離散的な感覚も失わず微妙なところで折り合っている。ちょっとしたことでばらばらになりそうになりながら、おおよそシンメトリーな構成が適度な求心性も発揮する。なんというか、少しだけ浮き上がってそこで止まっている、というような不可思議な感覚を与える像で、こういうところもちゃんと「立っている」他の八部衆と異なっているように思えた。また、指が破損しているのが痛々しくて、八部衆にはもっと大きく損壊しているのもあるのだけど、この阿修羅の、指が削り取られてしまったような(比較的小さな)こわれかたは、妙に生理的に響いた。


●国宝 阿修羅展