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NHK教育テレビの話続き。「クッキンアイドル アイ!マイ!まいん!」を初めて見たときはひっくり返った。
私の配偶者がいつの間にか歌を覚えていて、放っておくと踊りかねない(いっそのことフルで覚えて欲しい)ところを見ると、これはけして「おおきなおともだち」相手のビジネスというわけでは必ずしもなく、それなりに女の子魂に響くものなのだろう。そこに社会における欲望と権力の内面化、とか見る人もいるだろうけど私がここで関心を持つのは表現のレベルだ。この番組の焦点は途中に実写パート(そこで実際に調理が行われる)があることで、印象的なのはその実写パートが限界までアニメに近づいている。ここでははっきりアニメの方がリアリティの上位にあって、実写はいかにアニメに近づくかが課題になっている。似たことは2004年の村上隆によるコスプレ写真作品でも感じた(参考:id:eyck:20040526)。いま、リアリティはリアルにではなくアニメにある。
「クッキンアイドル アイ!マイ!まいん!」の、実写におけるリアリティ獲得テクニックは、スタジオの舞台美術から衣裳デザインに始まり、カメラワーク(途中、調理の注意事項を教えてくれるキャラクターの忠告が入ると、一瞬カメラが下からのあおりになる。極めてアニメ的にコンテが割られている)、モデルの化粧にまで徹底されているのだけど、一番のポイントはアニメのキャラクターと同一化させられている実際の子供のモデル:福原遥にある。このモデルは徹底的に「素材」的な存在で、いっそ清々しいほど主体が漂白されている。アニメパートの声優も兼ねる福原遥が完璧な棒読みしかしないのは意図的なものだ。アニメ的リアリティを実際の人間が実現するときに、本物の持つ本物らしさは邪魔になる。これが全部アニメーションであれば、声優は相応に「演技力」が求められるだろう。アニメーションにおいて、唯一表面に出る表現レベルで「実際の」人間の要素がエンドユーザーに届くのが声のパートで、そこでは平板な像と繊細な関係を維持できる「リアリティ」としての演技が時に過剰に求められる(単に生々しいリアリズムが要請されるのではないことに注意しなければならない)。
しかし、生身の人間がアニメのリアリティにまで「高まろう」とした時、実際のモデルの主体が表明されてしまう「演技」は決定的にマイナスだ(要するに「本物」はアニメ的にはリアルではないのだ)。声だけではない。このモデル(福原遥)の実写パートの動きや振り付け、表情はいわば全て「棒読み」で、与えられた記号のトレース以上の事を絶対にやらない。生身の身体が記号の抽象レベルに近接しようとしたら、そういった、福原遥個人の主体=egoが垣間見えることは全て避けなければならない。この特殊性は「おかあさんといっしょ」の歌のおねえさん、三谷たくみと比較すると分かる。あくまで実際のお母さんの代替である三谷たくみは、積極的な演技とパフォーマンスで主体を表現する。そのアニメ的声質はあくまでインターフェースでしかなく、だから画面の背後にはかっちりとした「本物の本物らしさ」がある。「おかあさんといっしょ」のカメラワークはあくまで三谷の主体的演技をきちんと捉える媒体にすぎない。
対して「クッキンアイドル アイ!マイ!まいん!」の実写パートにおける主要な演出は主にカメラワークによって行われ、モデルの福原遥は、そのための素材に徹する事が求められる。ステージとしてのキッチンへの出て来方、合間に必ず挟まる、やたらと紙芝居的=アニメ的なダンス(アイマス動画と比較せよ)、最後の決めポーズなど、動きのほとんどがお約束の記号で固められて予想外の動きはしない。もし、この動きを本当にアニメーションで再現したらむしろ単調で退屈だろうが、「実写」であるというハンディキャップを埋めるには、このように生身の肉体の豊かさをそぎ落として貧しくならなければいけないのだ。この狙われた「硬さ」と反するように、アニメーションパートのキャラクターの動きは、むしろなまじなアニメ作品より手が込んでいる。ただし、その動きの豊かさは主役の「柊まいん」には見られない(一見主役とは思えないほど「硬い」動きしかしない)。これは実写パートの柊まいん=福原遥との整合性・連続性を保つ為の苦心の演出で、アニメーションパートで最も魅力的な動きを見せるのは敵役のみちかで、トータルとしてのキャラクターの魅力は主役を完全に超えている。
村上隆によるコスプレ写真がボーメのフィギュアに敗北している事は前述の過去エントリで書いた通りだけど、ここでも「実写」パートを持つキャラクター・柊まいん=福原遥は、完全なアニメキャラであるみちかに負けているのだろうか?これまた過去エントリに書いた事を反復すれば、いまや現実の主体はアニメ的記号に向けて表面をコーディネートし加工しつつある(雑誌Hanachuを見ているとなんとなく腑に落ちる)わけで、そういう意味では福原遥は見事なローモデルとなっているのかもしれない。複数のフェイズを往還し時には二重・三重にイメージをレイヤードして「現実」をサバイブしてゆく子供達の「リアリティ」を見せているのが「クッキンアイドル アイ!マイ!まいん!」なのだとしたら、福原遥の「棒読み」は妙な迫力を帯びて聞こえる(もちろん、そのような構造を強いているのかもしれない社会関係は別途考えられる必要があるだろうけど)。