川村記念美術館での、ロスコの展示(高い位置に設置し、作品間隔が短い)が、アッシジのジョットの「聖フランチェスコの生涯」のフレスコ壁画の形式に近い気がした。「聖フランチェスコの生涯」のあるサン・フランチェスコ大聖堂はロマネスク様式の下部にゴシック様式の上堂が乗っているが、この上堂はとても天井が高く、「聖フランチェスコの生涯」はその高い壁面の、人の視線よりずっと上に、身廊を取り囲むように帯状に28面が描かれている。いわば壁に描かれた絵巻物語りのような構造で、見る物は各場面を追いながら聖フランチェスコの人生をビジュアルで理解することになる。しかし、このビジュアルな物語は、現代的なテレビのような水平的(つまり人の視線の高さで示される)なものではない。あくまで、決定的な高み−一般の人間的水準から切り離されたところに、独立して示されている。


教会壁画は文字の読めない平信徒への教育メディアだったのだろうけど、同時に教会権威の誇示でもあったのだから、という「俗」な理由をあえて棚上げしてみれば、このような、教会建築やその装飾は、いわばそれ自体が「人間」に向けられる以上に「神」に向けられたメッセ−ジでもあっただろう。それは人間の、人間に対する支配-被支配とか、コミュニケーションとか、そういったものから独立した、まったく「人間」を前提にしない世界へむけて造形された祈りの一形態でもあっただろう。そこでは、天使的な(つまり非-人間的な)メッセージのポリフォニーが組織される。文字通り人の頭の上で、作品を媒介にした天上の声の交歓が繰り広げられる。ここではメッセージは水平的ではなく垂直的なのだ。このような、反コミュニケーションとしての「垂直的コミュニケーション」ともいえる感覚はゴシック教会にはよく見られる。もちろんサンタ・マリア・デル・カルミネ教会のブランカッチ礼拝堂の壁画も、そのような構造を持っている。


私は、ロスコについては、人を包み込むような大画面、あるいは他の作家の作品を排した空間で観客を没入させ、1対1で対峙して完全な鏡像関係を作り出し、いわば観客を心理的に「取込む」作家だと思っていて(旧川村記念美術館のロスコ・ルームを見ていればそうとしか受け取りようがない)、そこに抗いようのない魅力と同時に抵抗感も持っていたのだけれど(参考:id:eyck:20090515)、今回の展示を見て、少なくともそれだけの要素の単純な作家ではないのかもしれないと考え始めた。ヒューストンのロスコ・チャペルもそうだけど、ロスコは少なくともその活動の後半に、明らかにルネサンス以前の美術形式に接近していて、そういう視点から見れば、「抽象表現主義」とカテゴライズされる事への反発も理解できる。抽象表現主義は、そのベースにはっきりと印象派を抱えているわけだけど、ロスコは印象派と無関係ではないものの(ことに私が最も好きだった中期のものはマチスとの関係を感じさせる)、心境としては中世からルンサンス美術にシンパシーをもっていたのではないか。初期のシュルレアリスムの影響からも考え合わせると、むしろ、印象派の比重はロスコにおいてまったく軽いのかもしれない。


ロスコは、少なくとも観客へのエフェクトだけを考えていた作家ではないのだろう。そこには、観客から切り離された、まったく独立した世界なりビジョンがあり、それを切り開くことがロスコの仕事の最も重要な箇所だったように思う。それは人間を無視してはいないものの、人間へ向けられているメッセージと反作用を起すように近代的人間主義から離れていくベクトルがあったように思う。印象派とは、いわば人間の知覚の重視、乱暴に言ってしまえば現象学的還元という側面が確かにあったのだと思うけれど、ロスコはやはりそういった「ヒューマン」な要素では語りきれないところがあるのかもしれない。