南天子画廊で「常設展-中村一美」を見て来た。昨年夏の新作個展の時の、中村氏の自己批評意識で組織された画面に私は驚きつつ、作品としてはやや苦しいのではないかと感じたのだけれども(参考:id:eyck:20080710)、今回見る事のできる98年以降昨年までの作品には、ずっと中村氏の資質に根ざした、開放的なものが多かった。要するに、余計な夾雑物の少ない真っすぐな作品に見えるのだ。メイン会場に置かれたキャンバスはおおよそ200号前後のものが多く、いずれも縦構図なのだが、制作年によってステイン(染み込み)されたもの、厚く絵の具が置かれたものと分かれる。また、絵の具の有り様も、かなりフラットに置かれたものからマチエールの見られるものとバリエがある。とはいえ、いずれの作品にもはっきりと「垂直」であることへの緊張が見られる。


これを200号の縦構図からくる形式的必然性、と見てしまうのは安易すぎるだろう。単なる「縦」ではないのだ。私は例えば2002年の「傾く小屋」展(東京都現代美術館)で見た中村氏の作品に対しては、あまりにも形式性に対する意識だけが先行して、いわば絵の「内実」が無視されすぎているのではないか、と感じたのだけれども、今回見られる作品は、いずれも絵画の形式と内容が一定のバランスを見せている。中村氏において、画面の運動というのは質量を持った、単なる光や観念としての「色彩」に還元されない絵の具のストロークの、重力に抗いながら複雑に偏差してゆくものだということは以前にも書いた事だけれども、こういった馬力のようなものは2006年の「存在の鳥108(アカショウビン)」においてとても明快なのではないか。


同時に、「傾く小屋」展の時のような底抜けの内容ではなく、ある程度良いな、と思える作品だからこそ感じる疑問もあって、それはタッチの空転に集約される。1998年の「採桑老I」は平滑に、しかし一定の厚みをもって縦に走るようにキャンバスを覆った褐色の絵の具層に、銀や白、ブルーグレーのストロークが真っすぐ、画面向かって左中頃を中心にした放射状に引かれるのだけれど、この、びっくりするくらいシンプルな構造の作品はビジュアルに決まっているだけに単調になっている。「月山-東補陀落」は、逆にうねるストロークが、どこか「うねること」自体の自己目的化となってしまっている感がある。その分画面が混濁し、中村氏の最良の作品において見られる、複雑なタッチの自己-差異化を見せながらそれが勢い良く、闊達にフレームを超えて行くような疾走感に繋がっていない。


私は中村氏の作品に見られる色彩が、今ひとつ上手く飲込めない。おそらくあえて混濁させたり、そこにぶつけるように乗せられた工業的にショッキングな色彩が、独特のテンションを見せつついまひとつ相互のつながりが不安定でインパクトとしてしか残らない事があるからだ。しかし、逆に作品内での「色彩の関係性」が絵の具の「物質性の関係性」と上手くリンクして、絵の具の存在としての色とマテリアルが分離せずに中村氏独自のストロークの運動と重なった時、それは確かな絵画空間として立ち上がる。私が中村一美という画家の特徴として感じるのは、ステイン(染み込み)という技法が、おおよそ「弱さ」に繋がらないことで、それはきっと、色彩を調和させるとういうよりは常にぶつける指向を持っているからだと思う。ステインというのは、ごく物理的に基底材になじむし、ステインの色彩相互はぶつけようがなく重ねれば混濁し並列させれば曖昧になる。「存在の鳥34」などに見られるステイン技法は、例えば色面同士に微妙に隙間を開けたり、明度でコントラストを付けるといった構成をとっているが、そもそもこういった有り様自体が色を簡単には「調和させ」ようとはしない中村氏の資質から出ていると思う。


●常設展 - 中村一