例えば豚肉を食べているとしても、たいていスーパーで小間切れにされたパックを買ってくるわけで、そこで「豚」という、屠殺された個別の生き物の全体をイメージして食べる感覚は持てない。牛肉も同じだ。以前、どこかのサイトで中華料理の子豚の丸焼きの宅配をオーダーして食べるという企画があったけれども、そういう事でもない限り豚肉はおおよそ工業的に処理済の素材でしかない。鶏肉は皮にぶつぶつがあったり、手羽先に鶏の身体の構造が感受されたりして部分的に生々しさが喚起されることもあるけれど、まぁきれいに加工されている。


その点、とてもカジュアルに「動物の死体」を丸ごと自分で調理して食べることができるのが魚だ。さんまが一匹58円とかで売っている所をみると、発泡スチロールの箱に氷が張ってあり、そこにえらからわずかに血が流れ出したさんまが、目をまんまるに開けてたくさん並んでいたりする。他にも鯛とか、アジとか、めばるとか、それぞれの生き物の個体が全体で並んでいるわけで、その圧倒的な「死体」感は見るたびに興奮する。時にはおがくずに入った蟹がごそごそ動いていたり、水をぴゅーぴゅー吐いているほやとか、屠殺(?)自体を自分でやることができる生物がさらっと売っている(いや蟹なんか買わないけれど)。


もちろん普通、人はそれが生き物でありまたその「死体」であることを棚に上げて見ているわけで、その為の明るく大きなスーパーの店舗であり発泡スチロールでありパックなわけだけど、一度それが「棚から降りて来てしまう」と、ちょっと魚は食べられなくなるだろう。実際、私の姉は10代の時に何かしらのきっかけで魚が「棚から降りて来て」しまったらしい。彼女いわく「魚と目があった」らしいのだけれど、以来相当長い間魚を食べることを拒否していた(今は食べられるようになったのだろうか?)。これはもう徹底していて、姉は食卓にしらす干しが出てくることさえ嫌っていた。あの、小さなしらす干しの、一つ一つの目と自分の「目が合って」しまうらしいのだ。小皿に少し盛っただけで数十匹以上になるしらすの目と、どうやって「目が合う」のか今ひとつ理解できないのだが、当時の姉ははっきりそう主張した。


私は子供の時から箸がきちんと持てない。小学生の頃、叔父一家にくっついて伊豆の海に旅行に行ったとき、宿で出る夕食の魚の食べ方がへたくそだと叔父に笑われた。彼の魚の「解体ショー」はそれはそれは見事なもので、ほとんど優秀な検死医のようだった。皮をはぎ、身を魚から外し、骨だけを取り出して行く様は美しかった。叔父は私が食べ終えた魚を「まだ食べられる」と行って楽しそうにつっついていた。今でも私は箸が使えないが、魚をバラす楽しみはずいぶんと覚えて、叔父のように美的な水準にはまったく至らないものの、魚を焼いて食べるのは苦にならない。そういえば、母は昔、ブリのカマ(頭)を安く買って来ては丸ごと煮てくれた(そんなことをするから姉は早く独立したのかもしれない)。


魚を食べるのを楽しむ私の感覚は「棚上げ」をしないでいる、というわけではないだろう。多分、ちょっと違う棚に上げているだけで、本当の「棚卸し」をしてしまったら、姉と同じようにしらす干しと目が合って手がつけられなくなるのかもしれない。自分にはいったいどのくらいの数の棚があるのだろう。それが本当に「棚卸し」されたら、これは大袈裟でもなんでもなく狂気に陥る筈だ。自分自身の身体だってバラせる「生物」で肉と血と骨の連結物が皮と毛にくるまれているだけなのだし。