・それは一つの戦争になっている。複数の権利主体が存在し、それぞれの主体は異なる背景を持ち合わせている。しかもそのプログラムには、その背景も権利を維持している。さらにいまはまだ「主体」と呼べる形式は確保していないものの、いずれは明瞭に権利を主張することになるであろう存在も想定されている。このような複数の諸力が、限定された場所で交渉し抗争するのだから、事態は混乱し迷走する。その迷走は、まずなによりも交戦時間の長期化として表面化する。


・そもそも戦場の確定自体が大幅に時間を費やす。古典的な戦いにおいて、戦場の設定というのは極めて興味深い局面といえる。偶発的な遭遇戦や奇襲攻撃ではなく、相互に闘う意思を持つ主体がその意志を明らかにした上で闘われる場合、戦いの「場所」のFixというのは、双方の接点の確認であり、交渉事案であり一種の共同作業ですらある。関ヶ原の合戦において、東軍と西軍は、現実の諸条件に基づき双方の意図を勘案しながら、それぞれにとってそれぞれにメリットのある場所、すなわち関ヶ原を導き出した。布陣だけをみれば西軍に有利だが、確実な兵の把握と運用を計れば不利を逆手にとれる東軍。


・戦いに割かれるリソースは有限だ。そして長期戦になるならば、確実な補給が前提になる。こうした事柄が戦いのフレームを確定する。投入できる物資、持続可能な補給、基盤となる生産能力。その枠組みの中で戦いは闘われる。そして、よく誤解されることだが、戦争というのは、一方的で完璧な殲滅戦であることはむしろ少ない。当たり前だがそこには政治的な戦略というものがあり、その戦略を実現する為の手段として戦争があるのだから。たんなる激発としての戦争など戦争たりえない。それが戦略に対してもっとも合理的であると判断されて、戦争は開始されるのだし、その終わりにおいても戦場で勝者となるには、敗者の同意が必要となる。太平洋戦争の日本ですら断じて無条件降伏などしていない、それはあくまで(かっこつきの)「無条件」で降伏するという条件を付帯した降伏だったのだ、と言ったのは江藤淳だ。こういった現実が戦争にフレームを設定する。


・フレームの確定自体が戦いにおいては状況の過半数を占める。そしてその上で、初めて砲弾が飛び交うことになる。陽動があり、恫喝があり、待ち伏せがある。そうした実戦と平行して、やはり必要な交渉があり、部分的には相互に物資の交換すらあり、技術の発見がある。交戦時間の長期化は、外部状況の変化を招く。前提にしていたことが前提できなくなり、可能だったことが不可能になり、またその逆もある。実際的な戦力の他に、参加主体の心理も重要なファクターとなる。常に冷静な状況判断がされることはまずなく、時に感情が揺れ、感覚が狂い、感性が変化する。そしてそういった心理自体が戦いの要素に勘案される。効果的な宣伝が必要であり、場合によっては休戦協定が結ばれ、戦略の見直しが計られる。戦いの継続は必要なのか?この戦いで確保されるべき利益は何で、必要のない利益は何か?それらは予想される不利益と適切なバランスを維持できているのか?


・紀元前から現代戦まで共通している「戦争」の内実とは、もちろん領土の確保と拡大だ。しかし、勝利の、本来の条件とは難しい。おうおうにしてそれは見失われる。拡大した帝国は不安定になったりもする。広い陣地を確保すれば良いとは限らないのだ。狭くても資源がある陣地。あるいは交通の要所となりうる陣地。エルサレムのように精神的なシンボルとなる陣地。領土の有用性・有効性は多義的であり、それらの多義性において、各陣営が本来的に必要としているものはなんなのか。だから、戦争は、外的な闘争であると同時にごく内省的な格闘でもありうる。この戦いにおいて実現されるべき自己とは何か?これが問われなければ戦いは闘えない。アメリカがベトナムで負けたのは、まさにこの内面の戦いにおいてと言える。


・ここまでにずいぶんと時間が経過してしまった。だが、考えれば、この戦争に終わりはないのかもしれない。戦場は形を変えていくし場所も移動するかもしれない。今は比較的細部の、細かなゲリラ戦のような状況が続くが、戦争とは恐ろしい。こういった細部での展開が、大局的な場面をひっくり返すかもしれない。