Youtubeで、スペースシャトル「コロンビア号」の、2003年の大気圏再突入時・空中分解事故を地上から捉えた映像を見ていた。


「Columbia Re-Entry Analysis」


マチュアが撮影していたのだろうか。しかし、いくつかの素材を繋げ、無意味な演出を排し、所々に必要な補足を示した厳格な編集は高度なものに見える。研究資料として公的に作られたものなのだろうか?7人の乗員の命が失われた悲惨な事故にもかかわらず、非常に静かな映像だ。事故の概要に関してはWikipedia「コロンビア号空中分解事故」が詳しい。


最初、暗い中に、ごく粗い光の点が現れ、それはふらふらと画面の中をふらつきながら(ふと画面から見きれたりする。おそらく地上から望遠鏡にカメラを設置して、移動するシャトルを追っているのだと思う)、すっと「debris1」「debris2」と表記される。デブリ-破片は、摩擦で熱せられた大気が打ち上げ時に破損した翼から内部に入り込み、シャトルが破壊されていった結果発生したものだ。やがて、その光の点は画面左下に小さくなってゆき、画面右上に、今度はやや黄みがかった、別の光が現れ大きくなり、やがて画面を覆う。異なる場所から捉えられた、同じシャトルの様子が、このようにワイプされ繋げられて行く。青い線が現れ、ネバタとカルフォルニアの上空を横切るタイミングが示される。コロンビア号の機体の側面図と上面図が示され、回転角度などが説明される。光の点はまだ小さいが、白い線を引き、新たなデブリが観測される。時に画面が二つに分割され、更に異なる場所から撮影された光が挿入される。時間を示す数字が入り、夜明けが近いことが分かる。


音も無く壊れて行くシャトルの光は、地平線に消えてはまた次のポイントで追尾しているカメラにバトンされる。途切れることのなくなった輝く線に乗るようにデブリが次々観測される(もっとも、序盤は文字でしめされなければ把握できないものもある)。映像の出だしでは漆黒だった背景は、いつしか青みを帯びた藍になっている。透明感のある青の背景の、右下にすっと鮮やかな赤が見えて、確実に朝焼けが迫っていることがわかる。ほろほろと燃えて崩れるシャトルの光は、その朝に向かって飛んで行く。アリゾナニューメキシコの境を超えるシャトルは、紫の雲に消える。改めて別カメラで捉えられた機影は、黒いスチールで、まだ原型をとどめていることがわかる。その後、2分ほど映像が途切れる。映像が再会された時の空は完全な青空で、小枝の影を過ぎた輝きは、大きく広がり四散する。3つのカットが並べられ、複数の大きな塊に分かれながら太い煙の線を描いていく。そして、これはおそらくアマチュアが捉えたのではないと思えるモノクロームの映像に変わる。もはやどれが本体とも言えない複数の光に分解しているが、その三つがクローズアップされ3つあったメインエンジンであるとキャプションが出る。その3つのエンジンが森の黒に消えて映像が終わる。


深夜、圧縮されたブロックノイズの目立つYoutubeの画面を見ながら、このような「美しさ」は、しかし、例えば1986年のチャレンジャーの打ち上げ時の爆発映像とは決定的に異なる気がした。あやふやな言い方になってしまうのだけど、宇宙船の打ち上げという、それ単独でカタルシスをもたらす場面(それを極限まで増幅したのがアルタヴァスト・ペレシャン「我らの世紀」だろう。参考:id:eyck:20060627)で起きたチャレンジャー爆発は、人々をどこか高揚させる。だが、コロンビア号の、仕事を終え、ただ帰ってくるだけという「静かな」シークエンスでおきた「静かな」爆発分解事故は、どこにも物語がなくカタルシスもなく、ただただ哀しく、そしてその哀しさが美しい(チャレンジャー爆発の映像を、私が知る限り最も効果的に「物語の演出」に用いたのは、北村想の戯曲「想稿・銀河鉄道の夜」だと思う)。


この映像の哀しさと美しさは、分析的な哀しさと美しさのように思える。スペースシャトル計画の初フライト、1981年の打ち上げを深夜に起きて布団にくるまりながらテレビにかじりついて見ていたのも、その帰還時の着陸中継を見ていたのも懐かしい記憶なのだけれども、この着陸映像の、ぎりぎりまでワンショットで捉えた映像を「もう少しで映像史上空前の出来事だった」と評したのが蓮實重彦氏だった(「映画狂人シネマの煽動装置」)。私が今回見た事故記録の映像は、そのような映画的緊張感に満ちたものではまく、ましてやアルタヴァスト・ペレシャンのような、ドキュメンタリー映像をメチャクチャにつないで全く異なる世界を開示したものでもなく、単に、分析素材の記録として、インターネットにアップロードされ常時見ることができる、貧しい資料体にすぎない。そのような貧しさ、使われることを待っているような一種の退屈さは分析、というものに常にまとわりつくもののような気がする。分析は常に「作品」に対して二次的で、カタルシスをもたらさない。そういう存在だけが帯びる美しさがある。ついでに書けば、「コロンビア事故最終報告書」を非公式に日本語訳した文書が公開されている。


この報告書にも同じような感触が在るのだけれど、素晴らしいのは驚くほど平易な訳文だ。専門的な文書がこれだけ読み易く邦訳され、しかも無料で公開されているのは信じがたい。内容も皮相的でなくNASAの歴史的背景まで踏み込んでいて凄い。