A-thingsで上田和彦展。キャンバスにアクリル絵の具で描かれた絵画作品が中心で、紙に描かれたドローイングも3点ほどあった。基本的に複数のタッチあるいはストロークが画面内で様々な方向に引かれて構成されている。ストロークは絵の具が完全に乾燥しないうちに引かれた場合、下層の絵の具が混色する。絵の具層は厚いものから薄いものまで様々だが、厚く扱われた絵の具は上から新たに引かれたタッチによって脇に寄せられたり、始点に/または終点に溜まったりする。


画面は完全に混濁することはなく、むしろ各タッチの混ざり合いや交差は一定の範囲にとどまっており、結果、長めのストロークには、1本であっても開始直後の、混じり気のない彩度の高い部分、途中で下層、あるいは上層と交差して反応しあった部分、筆が画面から離脱してゆくかすれた部分と複数の表情を持ち、それらの絡まり合いが画面の内の関係性の複雑さを増加させる。短いタッチで構成された作品は個々の色彩の純度が高く相互の関係性で構成されているが、機械的な点描画面となることはなく、タッチの疎密にばらつきがあり、また筆の運動が短いながらも複数の運動を見せる。キャンバスサイズは0号から10号程度で、ことに0号等の小さな画面では、絵の具が画面からはみ出し側面にまで及んでいる。いくつかの作品ではキャンバスの地が網目状のストロークの合間に(あるいはタッチの粗い箇所に)覗いて見える。


この作家の奇妙な絵画空間は、筆を経由した絵の具の取扱い、及び乾燥させる時間のオペレートから生み出されているように思える。一般に、下の層が乾燥しないうちに上に重ねて筆を置いた時、ストロークは強く画面に刻印されるが、当然色彩は混ざり画面は沈滞し、視覚的に不活性になる=ひたすら肉体のインデックスだけが表象される。しかし上田氏においてはこの「混ざり方」が繊細にコントロールされるため、上記のように彩度の高い箇所が相当に残され、また混ざった部分も、むしろ不十分な混色によって鮮やかな部分と新たな色彩がそれぞれに産まれる。そういった箇所が複雑に織り目をなし、相互に差異化していく。


つまり、通常は絵の具が「混ざる」ことは、色彩相互の関係が“均されて”いくのだけれど、上田氏の作る「絵の具の交差」は、むしろ複数のストロークがお互いに関わり合うことでより多様な断層を作り出し、運動を変化させる(たとえば画面の地で開始されたストロークは途中で生乾きの絵の具に乗る所で速度がかわり微妙にうねり、滑ることで動きの質が変化する)。画面内部はなだらかな沼状になるのではなく様々な層域を含み込む森林のようになる。有機的なストロークがそのような画面構築の装置として機能しているため、むしろ作り手の身体感覚は後退する、というよりは身体感覚そのものも、ある種の装置、画面構成のための「大きな筆」として対象化されていく。画面が小さいことは、ここである一定の根拠を示すことになる。すなわち、もともと単一性をつよく持つ小さなキャンバスは、このような上田氏のオペレートによって、複数に分岐し分裂し、ひとつの画面であることが疑わしくなる。こういった、物理的にはひとつの物である作品が視覚的にはばらばらになりそうに見える、という効果は大きな画面では得られないのではないか。


今回、上田和彦氏の作品では、ことに厚く盛られた絵の具の質感、アクリル絵の具の樹脂のテクスチャーがとても生々しく看取された。おそらくこの作家は今とても早いテンポで自らの扱うマテリアルに対する感受性を純化させつつある。要するに急速に「上手く」なっている気がする。結果、どの作品も作家の欲望に対して真っすぐな表現となっていて、抽象的操作に新鮮さを与えているように見える。作品内に部分的に見える逡巡すらも快活に見える。あえて言えば、どの作品も、少しだけ全体に「早い」感触があり、この「早さ」が一つ間違えると空回りしかねない危うさを予感させたが、最も最近の作と言う入口近くの作品にはそんな言い方を跳ね返すような楽しさが満ちていて、杞憂なのだろうと納得できた。


●Investiture Controversy 上田和彦