水の中を泳ぐ、そのことを思い出しながら考えていこうとするとき、私は多分、その「見た目」あるいは「光景」を記述してゆくわけではない。まとわりつく水の抵抗、冷たさぬるさ、質量、自分の荒い呼吸の音、激しい心音、苦しさ、爽快さ、緊張感と開放感、そういったものを個々に、しかし同時に「あの泳いでいる感じ」として全体に一つのまとまった体験として想起しながら、少しずつ考えを巡らしていくだろう。泳いでいる時に、何も考えずにいるわけではない。むしろ一生懸命、泳ぎの切実さに文字通り溺れそうになりながらいろんな事を思い、決断している。しかし、やはり事後に改めて、自分を「泳ぎ」そのものから引き離して、距離をとりながら改めて考えることはきっと次によりよく泳ぐ為には不可欠だ。繰り返すがそこでの「距離」とは、自分をその泳ぎと無関係な場所に置いた客観的な物ではあり得ない。自らの泳ぎに内在しながら、なおかつ時間的なディファレンスを設定すること。


作品を描いたり見たりすることを言葉にしてゆく、その所作は、私においてはこのような経験に近いと思う。それがいいとか、そうであるべきとかと言いたいのではなくて、そのような仕方しかわからないしできないだけだ。学として、厳密で実証的で多方向から検証可能な記述を排除したいわけではない(むしろ、そういうものに触れると新鮮で目が開かれることが多い)。あえて言えば、とことん厳密になったtxtは、その厳密さの極で「厳密さそのもの」が溶融し、それ自体が一つの作品のように立ち上がってくるのではないだろうか?絵画作品を徹底して形式的に記述しようとすれば、誰でもただちにその困難に立ち会う(ちょっとでもやってみればすぐ分かる)。それを無理くりにでも突破しようとしてゆく文体は、きっと、けして監視員のそれではなくスイマーそのものになっていく。


ともあれ、私は絵を描くものとしてしか描くことはできないし書くこともできない。泳ぎのVTRをモニタ越しに解析する、そのような方法はむしろ私のような人間こそ欲している筈なのだけどどうしても自分の泳ぎ方で泳いでしまう(それはきっと臆病のせいなのかもしれない)。過去にも書いたけれども、私にとって絵を見ることと描くことはまったく同義で、見る場面で私は泳ぎを見るのではなくむしろ“見る事を泳いでいる”。自分と異なる、多くは自分などより卓越した作り手と一緒に泳ぐ、などという傲慢な態度はとれないし(言うまでもなくそれは原理的に不可能だ)、かといって作品が作られて行くリズムから自分を引き離すこともできはしない。こんなことは描く人間でなくとも、作品を前にすればだれでも経験する筈だ。ポロックの絵の前で、あのドロップされた絵の具のビートに同期しないでいることができる人がいるだろうか?だからこれもきっと、その「見た経験」を書く時(見た瞬間から時間が経過した時)の意識の問題のように思える。


だとするなら問題は「思い出す」という行為そのものにあるのか。中学生の頃の、水泳の授業の後の、倦怠感というにはあまりに甘美な(あれはほとんど性的な感受性)全身に泳ぎそのものが尾を引いている感覚。そのような生々しさがどこかで保持されていない想起は、きっと退廃している。あの倦怠感はなんだっただろう?もう泳いでいないのに、なにか体がまだ幻の水泳をしている感じだろうか?そういえば、小学校の頃、遠足か旅行か、もう記憶は定かではないのだけど、長時間バスか電車に乗って1日過ごしたあと、夜寝る時になって、布団の中で、体がまだ微細にずっと振動しているような錯覚に陥った事があった。事故で腕や足を失った人が、ない手の/足の痛みを感じる幻肢とは少し違うのだろうか。そういえば一日絵を描いた時、夜、ふと手の感覚がまだストロークを描いている、そんな瞬間があったことがある。