ART TRACE GALLERYで境澤邦泰展を見て来た。キャンバスに油彩で描かれた絵画が展示されている。10号程度の作品から200号もあろうかと思える大型のものまである。画面の密度は様々で、基底材の地が大きく見えた、画面内にいくつかの筆のタッチが散乱したものから、それが密になりほぼ全体を覆ったもの(さらにそこに薄いベール層が重ねられたように見えるものもある)、グレーで覆われ僅かな明度差しか形成していないもの等がある。私はこの作家の作品を何度か見ているが、過去、このような展示を(個別の作品の評価とは別に)制作過程の並列に見えると判断してやや疑問を持っていたことがある(参考:id:eyck:20080725)。実際、過去の経験では、画面がブラックアウト(というかグレーアウト?)したものに完成度を感じたり、逆に余白の大きく開いたものが良く見えたりと、展覧会が一つのまとまりとして見えてこなかった。だが、今回は見方が変わった。つまり、この作家は展示を一つのまとまったパッケージとして見せようとは思っていないのかもしれない/あるいはまとまって見ない方がポジティブに見えるのかもしれない、と思えた。


私の気持ちが変わった理由は簡単で、画面が粗から密になり、グレーに覆われてゆく各段階の作品に、それぞれに良い、と思える作品が見られたからだ。ナンバリングで示される作品は、例えば「118」と記されたものは小型の画面に褐色あるいは青のやや細い、縦長で僅かに傾斜のついているタッチが、地塗りされたキャンバスに適宜間隔を開けて散らされているのだが、一つ一つのタッチが高い集中力で配置されごく清潔な画面を形成し完成度を感じさせる。「120」とナンバリングされたものはやはり小型だが、タッチが全面を覆いオールオーバーな構造を持つ。同時に各要素はそれなりに判別ができる。奇妙な透明度を感じさせ画面がほどけていくような振動を持つ。「124」とふられた大型の作品は、この作家に特徴的な、ほぼ画面がグレーで覆われた作品で、タッチや色彩が塗り込められた画面は反射光で見えているというよりは内部から絵の具自体が光りを発しているような感覚を与える。


これらの作品が、各個に良くみえたのは、恐らく作品サイズと内容の関係が一定の緊張感を維持しているからだと思える。タッチが散乱したものは大型のキャンバスでは散漫に見えるし塗り込められたものは小型の画面ではどうしても「画面全体の絵の具の力」が不足してゆく。しかし、同時に、この作家は、最初から完成をイメージして制作しているわけではないだろう。だから、小さな作品ならタッチを開けて、とか大型なら画面を覆って、などと考えていないだろう。あくまで、描きの場面場面で、自らの手の入れ方と画面の状態を図りながら、そのつど「それが作品足り得ているか」を考えているのだろう。だから、上記のようなサイズと内容の関係は、あくまで事後的な成果に過ぎない。各プロセスで、何かきっかけさえあれば、大型の画面でタッチが散ったものでも絵画が絵画として立ち上がるかもしれないし、小さな画面でも内部に埋め込まれた絵の具層の質が十分な力を持つかもしれない。この作家は一見反復に見える制作過程を踏みながら、そのつど僅かに分岐する生成変化のプロセスを微細にみやり、そこでおきる事態に鋭敏に反応しながら、少しだけズレる出力結果を見定めているように思う。半ば理化学の実験室の公開のような展示空間で、けして「ショー」としてプレゼンされているわけではない。


自らの絵画の、繰り返しに見えながらブレるように様々な可能性が芽吹く瞬間を、「展示」という時間・空間に一度置いて変化を確認しているようだ-一度完成したワインや日本酒を熟成させて変化を見てゆくように。だから、展覧会自体が「まとまって」見えることに意味はないし、むしろ個別の作品を前にした時、その個別の作品の状態を適切にテイスティングし、その味わいの質自体を判断すべきなのではないだろうか。このように思えたのは、明らかにこの作家が「完成度」のようなものから自分を引き離し、画面に揺らぎを与え始めているように見えるからかもしれない。例えば、グレーに覆われそうになっている「124」とナンバリングされた作品は、画面下部に僅かに隙間があり単一の質でフレームが包まれる直前の状態で保持されている。こういった所に、タッチが画面に与える振動を止めてしまわずにおこうとする作家の意思が見える。境澤邦泰という画家は、止まっているキャンバスにタッチが置かれたときから始まる震えを観察している。この揺れ幅の変化が問題なのであって、それが乱調したり微弱になったりすることと「完成度」は、恐らく、原則的に関係ないのだ。


一見端正で古典的な画家に見える境澤邦泰という人は、実験的な性質をもった作家かもしれないと思い当たった。あと、この作家をモノクローム的と見るのは本当に深い間違いで、上で「振動」と書いたものには光の波長の振動が十分に含まれていることは注意すべきだろう。印刷において、K(墨)1色で刷られたものと、CMYKの掛け合わせで作られた黒い面が明らかに違うように、この画家の作るグレーは豊かな色彩の合成としてある(グレー単色では境澤氏のような作品は基本的に成り立たない)。確かに狭い幅ではあるものの、境澤氏は色彩にごく意識的な作り手なのであって、「124」の下部の揺らぎは、そのような作品の持つ豊穣さが開示される為の窓なのかもしれない。


●境澤邦泰個展