メゾン・エルメス名和晃平「L_B_S」展。ガラスの球に胞状に覆われた鹿の剥製が1体、ポリウレタン樹脂が飛沫状に様々な工業品や工芸品に吹き付けられ大きさ順に直列に展示されたものが1組、床に置かれたボックスに満たされたシリコンオイルに、下部からグリッド状に配された穴からコンプレッサーによって空気が送られ規則的に泡がわき起こる作品が2槽ある。それぞれにBeads、Scum、Liquidと名付けられ、展覧会名はこの頭文字から設定されている。Beadsは剥製の表面がレンズ状になったガラスによって様々に拡大される。また、もともと滑らかに連続していた筈の表面が無数のガラス球の単位に分解されて見える。Scumは各モチーフの表面にボリュームをもったカビが生えたような状態に成っている。Beads/Scumどちらも、本来の素材の輪郭が隠されガラスや樹脂に覆われることによって奥へ後退する。Liquidは前者とは構造がことなり、いわば前者のモチーフを覆う覆いだけが抽出されている。


名和氏の特徴的な手法とは、インターネットのオークションで入手するモチーフの存在そのものへ触れる直接性を遮断し、微細な凹凸=セルを通して対象を分解することによって、実在のオブジェクトを、モニターやスクリーンを一切使用する事なく純粋に視覚的/知覚的存在にメタモルフォーゼさせることにある。より具体的に言えば現実にある物の表面や手触り、持ったり触れたり匂いを嗅いだり(場合によっては齧りついたり)することによって「確かに存在する」という確証を得る回路を封鎖し、レンズとして機能するつるつるのガラス球でパッケージして細部を断続的に拡大し光学的性質で実在感を溢れさせてしまう、あるいは触れようとする意識を断念させる加工をすることで奥に隠された対象を想像的にしか想起できないようにする。そこで遮断された直接性と得られた間接性が、なぜか対象により強いリアリティを与えてしまう、この逆説性が名和晃平という作家の武器と言える。


このリアリティの逆説性を、メディア的社会における仮想的イメージの氾濫だとかそれによる無媒介な経験の疎外とか言った言説に回収することはできない。そんなことであれば、単に適当な物をありふれた機材によって映像化してしまえばいいからだ。そしてそのような安直さは、映像は映像である(間接的リアリティは間接的メディアで形成される)というトートロジーしか産まない。凡庸な映像インスタレーションや写真作品が状況に対して何の差異化も計れないのは、そのように現実を構成する事実を分析することなく単にそのまま反復しているからだ。名和氏の作品がもつ戦略は、映像や写真を迂回し排除することで成り立っている。実際に目の前にある具体的なモノが、実際に物質的実体のある被覆物によって、間接的にしか知覚できなくなる、この背反を組織することによって、現実のリアリティを実在させる。むしろ、どこか名和氏は古典的な彫刻家に近い作家であって、問題はそのような実存がある種の間接性によってしか維持できない環境にどうアプローチするかだ。


この困難を切り抜ける為に、戦術レベルでは名和氏は繊細な操作を余儀なくされる。名和氏の作品においては光が大切な要素となる。実在物がその視覚的有り様だけを極端化させる名和氏の作品(Beadsはそのまま対象をレンズで包囲して視覚性をインフレさせ、Scumは対象を隠して触れることも見ることも出来なくすることで視覚性をデフレさせる)は、ある程度コントロールされた光が重要なのではないだろうか。ことにBeadsにおいてはガラスという素材が「美しく」見えることが作品のビジュアルな性質にとって重要だろう(こういった「美しさ」に関しては名和氏はナイーブと言えるほど即物的だ)。そういう意味ではレンゾ・ピアノによるガラスブロックで覆われたメゾン・エルメスの会場は演出的に成功している。だが、この「成功」は展示全体のエフェクトにおいてで、個別の作品の評価とは別だ。端的に言えば、原理的にこの展示の中心となるBeads(Scumは「Beadsになりきれなかった」と説明されている段階で副次的なものであり、Liquidは上記のように手法だけを特化させたものだ)が、十全な成功をもたらしていない。その理由は、今回のBeadsが大きすぎるからだと思える。


Beadsの生命線は、その実在物が、実在したまま間接的・視覚的=蜃気楼的存在になる所にある。だが今回の作品は、鹿が一頭まるまる使用されている。このモチーフの大きさが、どうしても拭えない質量を「直接」過剰に感じさせてしまう。また、それを覆うガラスもモチーフに比例して巨大化してしまい、それ自体が完全な「光学迷彩」とはなれず重量感を発生させる。私は名和氏の作品は、2004年のINAXギャラリー2での展示、2005年のアートフェア東京、また2007年のart@agnes、2008年のビビッド・マテリアル展などで見ているが、恐らくこの中で最も成功していたと思えたのはart@agnesのホテル内に置かれていた小型のBeadsだと思える(金魚にビーズが付着していた)。小型の作品であれば、モチーフそのものが軽く質量が少ないビーズによってごくシンプルに「実在の間接化・視覚化」がなされる。これが大きくなるにしたがって困難は増す。今回は明らかにこの視覚性と実在性のバランスが破綻している。モチーフが大型化する比率に平行してガラス球の被覆を大型化させるのは技術的にも難易度が高いように感じられる。


名和晃平「L_B_S」