Bunkamuraで「奇想の王国 だまし絵展」。序盤のスルバラン「聖顔布」は、率直に言ってこれは本当にスルバランなのかと首をかしげた(噂に聞くストックホルム国立美術館のものとは明らかに異質だろう)し、アンチンボルトは完成度があるのだけれど、板に描かれた絵の具層は妙に薄くかっぱげていて(板に絵の具が吸われたか-しかしそんな基礎的な技法ミスがこの作家にありえるだろうか-あるいは、つよくこすられたような感じがある。ポスターは明らかにこの絵の濃度を意識的に上げている)、十全な魅力を発揮しているとは思えない。


アンチンボルトの近くにあった16世紀のエアハルト・シェーンによる木版は、正面から見ると意味不明だが斜めから圧縮してみると排泄する男の姿が見えてフルクサスのジョークを想起させたりはする。呉春+松村景文の幽霊図とかはその顔の描写があからさまに死体の顔で、応挙の「美人幽霊」とは全然趣向が異なる。その前後の河鍋暁斎あたりから絵のダジャレ感が全開になる。柴田是真の「滝登鯉図」は、出世祈願の縁起物と言われながら“急な流れに(絵の枠外に)はじき出されている” とあったり、歌川国芳の浮世絵が「宴会芸のネタ」だったりと、このへんは笑点とか見てる感じではあった。


例えば、前述した今回出品されたスルバラン「聖顔布」はその質においてまったく疑問だけれども、この主題そのものはイデアの転写という側面があり、これは、例えば、光学的な写真のような技術が出てくる前の「外部」が画面に現前してゆく絵画だったという相応に射程のあるテーマなのであって、「だまし絵」といって宴会芸ネタと並列するのは流石に乱暴に過ぎるだろう。ちなみに聖顔布と聖骸布の関係に関しては過去、川口現代美術館スタジオ(過去、短期間だけあった川口現代美術館の後続組織)で行われた谷川渥氏の「版の芸術」という講演記録が参照できる。


こういった、傍若無人な「並列」が、なんだかどこかの観光地のトリックアート美術館のように都心でやたら人を集めているのが「奇想の王国 だまし絵展」で、凄いといえば凄い。私自身はあくまで個別の作品を当たるしかなかった。そういう意味ではワシントン・ナショナルギャラリーのマグリット白紙委任状」が見られたり国立国際美術館デュシャンが見られたりいわき市立美術館の高松次郎「影A」が見られたりしたのは相応の収穫だった。


視覚と知覚のエラー、Aというイメージが同時にBあるいはCというイメージに見えながらその断層があからさまに明示されている(こういったトリックイメージは、おうおうにして「本気でだます」のでははなくて、どこかタネ明かしがわかるようになっていて、その視覚の恣意性をメタ的にネタにするという構造があると思う)。要するに主体は一見分裂的な場所におかれそうになりながら、その分裂自体を俯瞰的に統合してネタ化することで統一主体が温存され知覚も「知覚のズレを知覚する」という形で再-強化されている。


まとまった形で見えてくるのは、どこか「狙った」感覚のないアメリカン・トロンプルイユのコーナーで、ここでは「思い出」の保持/捏造とその強化といった欲望が感じられて興味深い。例えば絵で壁に手紙や写真(注目すべきは1点家族/娘の写真を描いたものがあった)が貼られているかのような「トリック・アート」(ジョン・フレデリック・ピート「思い出の品」とか)があるのだけれど、冷静に考えればこれはおかしい。わざわざ「トリック・アート」が描かれるのは、原則的にそれがありえない物事をありえたかのように見せるのが目的の筈だ。知人から自分の元に来た手紙や残された(家族の)写真などは、端的に手元に有るはずのものをそのまま壁に貼ればいいわけで、それを絵にかかなければいけないのは何故なのか。


逆に考えればいい。知人からの手紙とか(家族の)写真が「ありえない物事」、それが言い過ぎならわざわざ絵に描いて強化しなければならないほど「思い出」あるいは紐帯のシンボルが希薄な環境でこのような絵が描かれる欲望が惹起される。思い出=記憶がなく、それをわざわざ人工的に造作しなければいけなかったのが「新世界から」の視線だったのだろうか。アメリカン・トロンプルイユは、構造も実際の作品も、そしてそれを欲望した人たちにも完全に「浅い」。この決定的な、露出した「浅さ」には「狙われた面白さ」のような、ある意味爛熟した文化にはない怖さがあって、ここのセクションだけが異なって見えた(こういう歴史の先に「Deep」であるような抽象表現主義が出て来たというのはきちんと考えるに足るテーマだ)。


●奇想の王国 だまし絵展