西尾維新の小説「傷物語」と「偽物語」の上巻を読んだ。この2作品は単純なジュブナイルとしては消費しにくい。テレビアニメ「化物語」を見て良くできているなぁ、と驚いて(リミットアニメとして妙に洗練されている)、そのストーリーに興味が湧いたので原作小説を図書館で借りようと思ったらとっくに長い予約リストが出来ていた。しかたがないので「化物語」の前日譚と位置づけされている「傷物語」と後日譚の「偽物語」の上巻を読んだ。私が読んだ2冊に関して重要なのは西尾維新の特徴と言われる言葉遊びや他作品の引用よりはテーマ性だと思うのだけど、そのテーマが少し奇形していてエンターテイメントのパッケージにきちんと収まっていない。


文章中ひっかかるのは倫理性のゆがみだ。ことに「傷物語」で主人公の高校生・阿良々木暦を物語の中核へと運んで行く「弱さ」の倫理=論理が印象的だ。ここで阿良々木は「自分はいなくなってしまうほうが良い」というネガティブな意志を示している。同級生・羽川翼への態度も、〔吸血鬼〕に出会ったときにする決断も、そのような自己否定の意識から導かれている。一読して「変」と感じるのは、その消極性が物語を進めてしまうことにある。勿論、自己否定や自死への欲動がエンジンとなる物語などありふれている。ところが「傷物語」の主人公には、そのようなエンジンとなるような「積極的消極性」のようなものもない。


主人公は漠然とこの世界から身をひこうとしているに過ぎない。そして中空にできた穴に吸い込まれるようにエピソードが阿良々木暦を目指していく。言うまでもなく限りなく状況から退いていく、その退きによって自己肯定の論理を呼び込むというのは幼稚なナルシシズムでしかない。私がいなければ世界はもっと上手くいくのではないかという妄想ほど傲慢な幼児性もない。だがこの主人公はそのナルシシズムの結果死にたくても死ねない〔吸血鬼〕になってしまう。そして〔吸血鬼〕との交歓が、お互いにお互いを縛る形で相互に「消える(死ぬ)ことができない」という条件を形成してゆく。言い方を変えれば「傷物語」では登場するキャラクターが助かる=生きる=消えられないことは、受苦になっている。この受苦によって、世界から退きたいというナルシシズムは断念されつつ反転した万能感にもなる(何しろ何があっても主人公はすぐに回復してしまうのだ)。


偽物語」においてはことに後半、去勢される=大人に成ることが問われる。そしてその「大人」は「間違い=偽」を通過した後にだけ立ち上がっていく。自己承認を「他人」を踏み台にして得ようとしていた阿良々木火憐の挫折、および自分の思い=重みを「怪異」にゆずり渡してしまった戦場ヶ原ひたぎと詐欺師の関係の清算が一応の物語の「落ち」なのだけれども、ここでも倫理性が歪んでいる。火憐は兄である暦によりヒーロー願望の成就を諦め、ひたぎは思い詰めていた復讐の相手の詐欺師に引き下がられ敵を失う。つまり共に去勢されるわけだけれども、その去勢自体が詐称的な言葉による「言いくるめ」によって遂行される。妹は兄に、だまされた少女は詐欺師にそれぞれ、言葉で負ける。この論理はおおよそ見かけだけのもので、実際上は火憐は兄からの近親相姦的な「愛」と自己承認を交換しているし、ひたぎは過去の詐欺師への「愛」を肯定されることでやはり自己承認を獲得する。


それぞれのキャラクターの大きな物語が内的な小さな物語に置き換えられることがここでの去勢だが、その変換が詐称によっているのが「変」なのだ。「偽物語」の変さはそこにとどまらない。最後近く、阿良々木火憐と兄・暦の「対決」は、妹の去勢であるのと同時に、そのような去勢を行う兄/妹間のセックスの暗喩になっていると思うのだけれど、ここで暦は暦自身の去勢を緩和している。つまり妹を去勢することが兄の去勢の回避になっている。物語の進行の中で、妹から一歩だけ「大人」に近づいていた(消えたいというナルシシズムを断念させられた)兄によって、兄-妹は分離を感じている。そこで兄から妹へおこなわれた〔近親相姦的去勢〕という不思議な儀式によって、兄と同程度にだけ「大人」になった妹は、結果的に去勢されつつ兄との距離の近さにおいては回復している。


このような「変」さは「大人」の立場から整合的に子供向けの話を作る中からは現れない。子供が子供のまま、つまり子供を維持したまま「大人」たろうとする軋轢の中からしか産まれない。ライトノベルというジャンルにおいて大人に成りきれない子供といった言い方は陳腐な視座でしかないだろうが、「傷物語」「偽物語」ではもう少し事態は複雑で、「大人」「子供」という二項対立ではなく、小学生、中学生、高校生、成人、中年といった各階層の精神状態が発展的に切り捨てられずに、全てを含み込んだまま存在し得るのではないかという試みになっている。中学生は小学生を含み込んでおり、高校生は中学生とけして分離せず、成人はきっかけしだいで幼児に変容し、中年は高校生や幼児の近くにいて彼等を否定しない。


子供の成長物語を大人が遡行的に構成したりせず、半ば同時進行的に、子供のエゴやナルシシズムを含み込んだまま記述してゆこうとする中で、その矛盾と格闘するために倫理性とその問いが過剰になって奇形化してゆくジュブナイル小説としては、新井素子「ラビリンス」が近い気がする。人を食べる怪物が閉じ込められた迷宮への生け贄として送り込まれた少女が怪物と「対決」しながら「恋」に落ちるという荒唐無稽な物語は、他者を犠牲にしながら生きる、つまり自らは常に加害者であることをことを受け入れることとその拒否の相克、それをなんとか回避できないかという素朴なナルシシズムの自己対話で構成されている。新井素子には突然このような「倫理」が生な形で挿入される作品があるのだけれど(「…絶句」などは典型的)、大人目線の教訓的な物語を拒みつつ、単に子供の自意識をそのまま肯定もせず何らかの形で大人の世界に生きながらえさせようとする試みは、作品としての整合性を越えた情熱で今でも行われているのだと知って少し驚いた。こういった系譜には、もしかするとアニメーション「機動戦艦ナデシコ」も含まれるかもしれない。


羽川翼「母」を表象しつつ、それが近年の「萌え」の世界での都合のいい「メイド的母親」とは異なる、ハードな禁止の象徴性を併せ持った父(乳?)でもあること、八九寺真宵が小学生でありつつ祖母のイメージを持っていること、家族の問題が頻出することなど、「化物語」は他にも語り口を持っていると思えるのだけれど、原作とアニメーションを全部経験してから改めて書きたい(気力があれば)。